フォト
無料ブログはココログ

« 抱腹絶倒だけじゃない-劇団チェンジアップ第二回公演“笑あっぷあっぷナイター” | トップページ | 【恒例】ジャイアンツ球場新人合同自主トレ見物記。 »

2020年1月18日 (土)

♪一番高木が塁に出て~ 追悼・高木守道さん

Adsc_5413
元ドラゴンズ監督の高木守道氏が17日午前、急性心不全でなくなられた。78歳だった。高木守道さんは敗戦処理。が日本のプロ野球に興味を持ち始めた頃には既にドラゴンズの顔として、冒頭のタイトル『燃えよドラゴンズ!』の歌詞の様に「一番・二塁」が指定席。昔ながらの典型的な一、二番タイプの名選手だった。


(写真:名球会のイベントに、入団一年目の復刻ユニフォームを着て出場した高木守道さん。この時77歳。 201811月撮影)

 

 

 

敗戦処理。がプロ野球に興味を持ち始めたのはジャイアンツのV9時代の終わり頃。ジャイアンツの連覇を止めたのは昭和49(1974)のドラゴンズだったが、そのドラゴンズで高木守道さんは「一番・二塁」を努める中心選手だった。この年33歳。まさに円熟期だった。印象としては寡黙な名手。タイトルは板東英二が歌った『燃えよドラゴンズ!(作詞・作曲:山本正之、編曲:神保正明。東宝。)の歌詞だが、昭和の典型的な一、二番タイプ。いぶし銀の名選手だった。


子供だった敗戦処理。は高木さんとジャイアンツの二塁手、土井正三さんでは二塁手としてどちらが上か?と友達と話し合ったものだった。ドラゴンズからは後に立浪和義、荒木雅博と名手と呼ばれた二塁手が高木さんと同様に名球会入りを果たすがタイプとしては立浪も荒木も高木さんとは選手としてのキャラが違い、高木さんの後継者という感じではない様に思う。その後の二塁手では球団は異なるが仁志敏久が強いていえば近いか。上述した様に昔ながらの一、二番打者タイプだった高木さんも現役を引退する前の年の昭和54(1979)には開幕からホームランバッターになったかの様に本塁打を連発した。ここという場面で狙い澄ましたかの様に一振りでスタンドに放り込んだ。開幕から4月中の17試合に7本塁打と打ちまくり、当時37歳だったこともあり“春の椿事”と呼ばれた。その後はペースダウンしてこの年の本塁打は11本だったから、シーズンの半分以上の本塁打を一ヶ月で打ったことになる。


高木さんはこの翌年の昭和55(1980)限りで現役を引退した。シーズン後にセ・リーグの東西対抗戦がドラゴンズの本拠地であるナゴヤ球場で行われ、既に現役引退を表明していた高木さんも出場した。高木さんは江川卓が投じた“サービスボール”を見事にレフトスタンドに放り込んだ。現役時代寡黙な印象だった高木さんが嬉しさを前面に出してぴょんぴょん跳ねる様にベース一周したのを覚えている。ホームインの直前にはマウンドの江川にも感謝の意思表示をしていた。


高木さんは現役時代に2274安打を記録したが、よりファンを魅了したのは名手と呼ばれた二塁守備。特に二遊間の打球を処理して併殺を狙うときに見せた、捕球したボールを左手のグラブからそのままトスをするグラブトスや、すぐに右手に持ち替えて二塁ベースカバーの遊撃手に送球する“バックトス”は高木さんならではの名人芸と呼ばれた。高木さんが二塁手として出場した試合数2179は日本プロ野球歴代最多記録でその後も破られていない。


ドラゴンズ生え抜きの名選手だけに“ミスタードラゴンズ”とも称された。だが高木さんの2274安打も236本塁打も球団最多記録ではない。ドラゴンズの歴代最多安打は立浪の2480安打で歴代最多本塁打は大島康徳321本塁打。369盗塁は中利夫347盗塁などを上回っているので球団歴代最多盗塁記録かと思ったら荒木が378盗塁を記録していた。ただ盗塁王に三回なっているのはドラゴンズでは高木さんだけ。


引退後には三度ドラゴンズの監督に就任した。一回目は昭和61年のシーズン途中に休養した山内一弘監督の後を受けての代理監督だった。その年限りで退任し、星野仙一氏が新監督に就任したときには、ジャイアンツファンである敗戦処理。でも「これがミスタードラゴンズに対する処遇なのか!」と憤ったのを記憶している。


その星野監督が退陣した翌年の1992年から監督に就任。三年目の1994年にはシーズン終盤に優勝を目前にしてもたつくジャイアンツを猛追し、公式戦最終戦を前にジャイアンツと同率首位で並んでいたが、相手の長嶋茂雄監督が“国民的行事”と呼んだ“10.8”決戦に敗れ、大逆転優勝を逃した。


個人的にはこの“10.8”決戦はパ・リーグの“10.19”と並んで後世に語り継がれる名勝負のひとつだと思っている。もうすぐ2月になり、恒例の川崎球場イベントが催されたら、またぞろ当時をろくに知らない輩まで含めて“10.19”を語り始め、該当二球団のみならず「パ・リーグ最高!」と騒ぐ時期が来そうだが、ジャイアンツファンはもちろん、ドラゴンズや他のセ・リーグの球団のファンもこの名勝負を機会あるごとに語り尽くして欲しいものだ。


ドラゴンズファンにとっては負け試合ということもあるが、一方のジャイアンツが槙原寬己、斎藤雅樹、桑田真澄と当時の三本柱を惜しみなくつぎ込んだのに対し、ドラゴンズがエースだった今中慎二と心中する感じだったので温度差が感じられたのだろうが…。


この名勝負を繰り広げた一方の将が残念ながら帰らぬ人となった。ミスターも再び療養生活に入っている様で高木さんの訃報を伝える18日付スポーツ報知にもコメントを発表していない。(筆者注.18日夕、巨人軍が発表。)


脱線するがそのスポーツ報知では蛭間豊章記者が高木さんを悼み、記録面でもその偉大さを語っている。現役の名二塁手、菊池涼介と記録面で比較している。確かに高木さんの後にも菊池涼に至るまで守備の巧い二塁手は時代時代に存在するが、言葉で表すと“巧い二塁手”、“堅実な二塁手”は高木さんに尽きると敗戦処理。は思う。


三回目の監督就任は一時代を築いた落合博満監督の後任という形で2012年から二シーズン監督を務めた。勝つには勝つが集客に結びつかず、なおかつ何かと経費がかさむ等と球団内部にもアンチ派が多かった落合体制にピリオドを打っての高木体制。一年目の2012年に2位になってクライマックスシリーズのファイナルステージでもこの年のセ・リーグ優勝だったジャイアンツに三連勝して先に王手をかけるがそこまで。三連敗を喫して日本シリーズ出場を逃した。昨年まででドラゴンズにとって最後のAクラスとなったのがこの年で、以後昨年まで球団ワースト記録を更新し続ける7年連続Bクラスとなる。もっともこの年の2位躍進は前任の落合監督時代の遺産で勝てたとみているドラゴンズファンが少なくない様だ。


監督としての通算成績は383勝379敗25引き分けで勝率は.503。通算勝率で五割を上回ったがリーグ優勝、日本シリーズ進出を果たすことは出来なかった。最高位は2位で通算7シーズンのうち3回2位になっている。


因みに落合氏は監督退任後の講演会で、自身がドラゴンズの監督時代に出席した、オフに行われるOB会で落合氏に“ドラゴンズOB”として普通に接してくれるのは「高木さんと杉下さん、それから権藤さん…」といった数少ない大御所の先輩達くらいで、監督として以外に現役時代にも7年間在籍した自分を仲間扱いしてくれる人が少ないと語っていた。この講演は監督を辞めてドラゴンズが高木監督になってすぐの時期だったが落合氏は「高木さんと権藤さんが喧嘩をしないか。二人とも素晴らしい野球人だけど、二人を一緒にやらせてはダメ。 」と嫌な予感がすると後にネット等で取り沙汰される暴走老人同士のトラブルを示唆していた。


敗戦処理。がプロ野球に興味を持ち始めた、高木さんが円熟期を迎えていた時代のドラゴンズはジャイアンツ、タイガースと並ぶセ・リーグの強豪で、失礼ながら他の三球団とは実力差が開いていた様に感じた。その後、カープやスワローズが球団創立以来の初優勝を成し遂げて群雄割拠の時代に入る。ドラゴンズも強い時期や弱い時期があったが、落合監督の時代に8年間で4回優勝を果たす黄金時代を迎えたが、その優勝を最後に今ではセ・リーグで最も日本シリーズから遠ざかっている球団になってしまっている。偉大なOBが元気なうちに強竜復活を示して欲しかったが、朗報は天国に届けるしかなくなった。


最後になりましたが、謹んでご冥福を祈ります。

 

 

 

« 抱腹絶倒だけじゃない-劇団チェンジアップ第二回公演“笑あっぷあっぷナイター” | トップページ | 【恒例】ジャイアンツ球場新人合同自主トレ見物記。 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 抱腹絶倒だけじゃない-劇団チェンジアップ第二回公演“笑あっぷあっぷナイター” | トップページ | 【恒例】ジャイアンツ球場新人合同自主トレ見物記。 »

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック