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2019年6月 7日 (金)

漫画『江川と西本』連載終了。

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雑誌『ビッグコミックスペリオール』(小学館)に連載中の漫画『江川と西本』(作/森高夕次 画/星野泰視)が先月24日に発売された同誌12号にて連載が終了となった。江川卓西本聖をライバルと捉え、主に西本聖の視点に立って二人の高校時代から始まるライバル関係を描いていた。


どの時代まで扱うのかな?と毎号楽しみに読んでいたが、江川が20勝、西本聖が18勝してジャイアンツがリーグ優勝した昭和56年(1981年)、日本一に輝いた日本シリーズまで描いたところで終了した。江川にとっては自身最多の20勝を挙げた年で、西本聖にとってもジャイアンツ在籍期間では最多となる18勝を挙げた年なのでその一年を描ききって最終回というのもわからなくはないが、個人的には翌昭和57年(1982年)の互いのライバル意識を垣間見たある試合を振り返って欲しかったのでいささか残念に思う。

 



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昭和56年(1981年)といえば、江川卓にとっては自己最多となる20勝を挙げた年。西本聖にとってもジャイアンツ在籍期間では最多の18勝を挙げた年である。監督が長嶋茂雄から藤田元司に替わったこの年、西本聖は公式戦開幕直前に奥さんが生死をさまよう大やけどを負い、既に当時エース扱いされていた江川はその西本聖に開幕投手の座を奪われ、その後大活躍して20勝を挙げても投手として最大の勲章と言われる“沢村英治賞”を受賞できないなど互いに波瀾万丈の年。両投手にとってピークだった年だからこの年で連載を終えるというのはわからなくはない。ただ、詳しい人によると漫画作品は読者の評価が低いと途中で打ち切られることもあるというので不本意な形での終了だった可能性も無くはない。


ただ、あくまで個人的な希望ではあるが、翌昭和57年(1982年)の二人のライバル意識を連想させたシーンを扱って欲しかった。


昭和57年のジャイアンツはドラゴンズと激しい優勝争いを繰り広げていた。江川はこの年のシーズン中に行われたCM撮影の際に右肩を痛めたとされるが、それでも31試合に登板して19勝12敗という成績を残した。西本も前年の18勝には劣るものの15勝を挙げた。定岡正二も自己最多の15勝を挙げ、江川・西本・定岡の三本柱としては最も輝いた一年と言える。


江川と西本の熱いライバル意識を感じさせたのはシーズン終盤の最後の直接対決。ドラゴンズの本拠地、ナゴヤ球場での三連戦。

 

この三連戦が始まる時点での成績は以下の通り。ジャイアンツが2.5ゲーム差で首位。ドラゴンズは2位。

1位 巨人 123試合 64勝46敗13引き分け 勝率.582 残7試合
2位 中日 114試合 54勝41敗19引き分け 勝率.568 残16試合


当時は130試合制でクライマックスシリーズは無い。最終的に勝率が最も良いチームが優勝というルール。ジャイアンツとドラゴンズの直接対決はこの三連戦が最後。


まだドーム球場が出来る前の時代で、屋外球場での試合開催ばかりなので雨天などの影響で試合消化数にばらつきがあり、ジャイアンツの方が9試合多く先に消化している。言い方を変えれば2位のドラゴンズの方が9試合多く残している。ジャイアンツとしてはこの直接対決の後のドラゴンズは6試合全部勝つと覚悟しなければならない。6試合に全部勝つと3ゲーム差を縮められるから、現在2.5ゲーム差での首位ジャイアンツは逆転される危険性がある。それを避けるにはこの直接対決に勝ち越してゲーム差を今より拡げておきたい。


ジャイアンツはこの三連戦、江川、西本聖、加藤初と主力級を三人ぶつけた。三本柱の一角を担う定岡はドラゴンズとの相性が悪く、この年一勝も出来ていないので先発を外された形だ。


初戦、一回表に原辰徳に先制3ラン本塁打が出る理想的な展開で江川も好投して6対2で最終回を迎え、ジャイアンツが快勝するかと思いきや、江川が九回裏に突然崩れる。当時はエースと呼ばれる投手に、リードした試合で途中からリリーフにマウンドを託すという習慣は無かった。どうしても最後までもたない時にリリーフの力を借りるという感じで、九回裏も当然のように江川がマウンドに上がったが大学時代から苦手としていた豊田誠佑の安打を皮切りにつるべ打ちにあい、あっという間に同点にされた。江川は延長十回のマウンドにも上がり、先頭打者に安打されたところでこの年のリリーフエース、角三男にマウンドを譲るが角が大島康徳にサヨナラ安打を打たれ、6対7でまさかの敗戦。4点リードをひっくり返されることになり、ただの一敗では無くドラゴンズに勢いをつける負け方になってしまった。そしてドラゴンズはこの時点で首位ジャイアンツを1.5ゲーム差で追う2位という段階ながら残り15試合で優勝マジック12となった。ジャイアンツはいわゆる“自力優勝の可能性が無くなった”状態。


いささか横道にそれるが引退後、江川はナゴヤ球場での最も印象に残る試合としてこの試合を挙げていた。この三年後に同じナゴヤ球場で行われたオールスターゲームで8人連続奪三振という活躍をしたがその試合で無くこの試合が最も印象に残る試合だったらしい。


“江川で負けてもまだ西本がいる”…そう思ったジャイアンツファンの望みを西本が裏切る。二戦目、西本は初回に2失点。その後は抑えるが負けられないジャイアンツは六回表の打席で西本に代打。勝負をかけて同点に追いつくが二番手の、今風にいうならこの年のセットアッパーとして大活躍した浅野啓司が打たれ、2対6で連敗。連勝のドラゴンズは勝率でジャイアンツを抜いて首位に立ち、残り14試合で優勝マジックも10となった。


剣が峰に立たされたジャイアンツは三戦目にベテランの加藤を先発に起用。四回裏に2点の先行を許すも、五回表に3点を奪って逆転。3対2で迎えた六回表に加藤に打席が回ると代打を送り、六回裏には前日に先発した西本聖を投入。当時(昭和57年)としても超異例な先発投手の連投。なりふり構わず1点のリードを守ろうとした。


八回、九回に追加点が入り、西本聖は最後まで投げきってジャイアンツが一矢を報いるのだが西本聖がピンチを迎えると藤田監督はブルペンに江川を向かわせ、エースにも準備させた。当時のナゴヤ球場は今の神宮球場のようにファウルグラウンドにブルペンがある。江川の投球練習はスタンドのファンを驚かせただけでなく、マウンドの西本聖を奮い立たせた。


マウンドからもわかるブルペンでのリリーフ投手の準備が登板中の投手に動揺を招く例は“江夏の21球”が有名だがその三年後。藤田監督は西本聖の江川に対するライバル意識を巧妙に利用したと思える。この時の心境を両投手の声も含めて再現して欲しかった。


当時の新聞を見ると藤田監督は「西本聖はありったけのものを出してくれた。最初から全員でいくぞ、と言い渡してあった。むろん、江川にも投げさせるつもりだった」とコメントしている。


江川といえども先発で十回裏の先頭打者まで投げてから中一日でリリーフして本来の投球が出来るのか、それはわからない。しかし西本聖の性格を考えれば、視線の先に投球練習する江川の姿があるだけでプラスアルファの力を発揮することを藤田監督が期待しても不思議では無いと思う。


因みに当時のジャイアンツの本拠地、後楽園球場は現在の横浜スタジアムのように両翼のポール際にブルペンがあり、グラウンドからは誰が投球練習しているかはわからない。この直接対決が後楽園球場でのジャイアンツのホームゲームだったら西本聖はドラゴンズ打線につかまっていたかも…。


この試合で息を吹き返した感じのジャイアンツだったが、最終戦となる横浜スタジアムでのホエールズ戦に江川が先発するも3被本塁打でKO。五回裏途中に2点ビハインドで西本聖に後を託した。西本聖は無失点で最後まで投げきるも、打線が反撃できず1対3のまま敗れた。この試合の後、ドラゴンズが最終戦で優勝を決めた。


何が何でも負けられない直接対決の最終戦では西本聖の意地の踏ん張りで両エースの共演は実現しなかったが、皮肉なことに最終戦では江川KOの後に西本聖が投入されるという形で両エースが共演した。


ライバル関係だった二人だが、江川が昭和62年(1987年)限りで現役を引退し、終止符を打つ。現役最終年といっても江川は13勝を挙げており、ファンには突然の引退と思われた。結果的に江川の公式戦最後の登板となったマウンドは、この年、セ・リーグで優勝したジャイアンツが日本シリーズに備えて調整登板させた公式戦最終戦。西本聖が先発した後に江川を含む主力投手が次々と登板した。


西本聖は翌昭和63年までジャイアンツに在籍し、そのシーズン後にドラゴンズにトレードされる。オリックス・ブルーウェーブを経て1994年にジャイアンツに復帰するが残念ながら往年の力はなく、一軍に上がること無く引退した。


江川は現役引退後、何かにつけて監督就任の噂は挙がるものの万年候補といった感じでコーチですらジャイアンツのユニフォームに袖を通していない。西本聖はいくつかの球団で投手コーチを務めるもジャイアンツのユニフォームを着ていない。


『江川と西本』というタイトルで二人のライバル関係を描くなら、連載終了のもう一年後も描いて欲しかった。


敗戦処理。が昭和57年にこだわる理由はもうひとつ。一般的には江川のピークは20勝を挙げてMVPにも輝いた前年だが、この年の江川にこそ“エースとは”というものを感じるからだ。


31試合登板(全て先発)、24完投、19勝12敗、防御率2.36


31試合に登板して19勝12敗ということは登板した試合の責任を全て自分で負っているということだ。そして19勝を挙げているが、江川が勝利投手になった試合でリリーフ投手にセーブが付いた試合が無い。この年の抑え投手は角だったが、江川が投げた試合で角が登板したのは上述の4点リードを守れなかったドラゴンズ戦の一度だけ。江川がサヨナラの走者を出し、その後に角がサヨナラ打を打たれているが敗戦投手はサヨナラの走者を出した江川。


勝とうが負けようが自分が投げた試合は自分で決着をつける。そしてリリーフエースの力を借りない。これこそエースのあるべき姿だと思う。そういう点では20勝を挙げた前年も凄かったが、この年こそエースの投球だったと思うからである。


もっとも、上述した肩の故障によりこの後の江川は、徐々に江川で無くなっている。現在のプロ野球では先発投手の中六日での先発は当たり前になっているが、まだ中四日が主流だった時代に大事をとって中六日で投げるようになった走りが江川だったと思う。さらにいえば、100球前後でバテることが多く、江川は“百球肩”と揶揄されたが、今では先発投手の交代機のめどに100球という投球数が挙げられる。江川はある意味時代を先回りしていたのかもしれない。

 

当時を知らない若い読者が『江川と西本』を読んでどう感じたかが気になる。懐古趣味の中年には良い作品であったが…。

 

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