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2015年7月15日 (水)

高橋一三さん…。

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ジャイアンツV9時代の左のエース、そしてファイターズに移籍後も後楽園時代の
1981年のリーグ優勝に大きく貢献した元投手、コーチの高橋一三さんが14日午後、なくなられた。69歳だった。


敗戦処理。が日本のプロ野球に興味を持ち始めた時のジャイアンツの左のエース。敗戦処理。にとって、生まれて初めて目の前でサインを書いていただいたプロ野球選手ということで、思い入れも強い。


本当に残念だ。


(写真:タイガースとのOB戦に登板した高橋一三さん。200711月撮影)

 



敗戦処理。が応援するジャイアンツ、ファイターズ双方で活躍した選手ということもあるが、冒頭にも書いたように、野球に興味を持ち始めた時の花形選手だったことでなおさら印象に残っている。



一般的には、ジャイアンツのV9時代の左のエースとして、右のエースだった堀内恒夫と共に、高橋一三さんは左右の両輪とみなされ、今回の訃報記事でも概ねそう書かれている。だが、1973年(昭和48年)には高橋一三さんはキャリアハイの23(13)だったのに対し、堀内が12(17)だったこともあり、高橋一三さんのインパクトが強かった。


当時のちびっ子ファンは誰でも両肩を上げて、いかり肩を真似して高橋一三さんの投球フォームの物まねに興じたことだろう。


もしももう一年早く野球に目覚めていたら、この前の年、1972年には堀内は269敗だったから高橋一三さんへの印象は違ったものになっていたかもしれないが


高橋一三さんの成績はこの1973年がピークでその後下降線になってしまうのだが、23称した翌年、キャンプイン直前の時期に、当時世田谷区に住んでいた敗戦処理。の家の近くのケーキ屋さんに高橋一三さんが来て、1,000円以上買うとサイン会に参加出来るというイベントがあり、その時にサインボールをいただいた。敗戦処理。はその後何回か引っ越しを繰り返し、残念ながら行方不明になってしまった。


余談だが高橋一三さんは
23勝もしてもこの年のセ・リーグの最多勝利投手になっていない。江夏豊24勝を挙げたからだ。そして江夏のいたタイガースでは江夏以外に上田二郎22勝を挙げている。20勝超の投手が同じチームに二人もいるという、今では考えられない成績だが、それでもこの年のタイガースは優勝出来ず2位だった。ジャイアンツのV9最後の年。さぞかしジャイアンツが強かったのだろうと想像する人もいるかもしれないが、この年のジャイアンツの最終成績は当時の130試合で66604引き分け。貯金6での優勝は歴代最少で、今年並みの大混戦だった。何とも不思議な年だった。


高橋一三さんはその後成績を落とし、翌1974年は211敗、長嶋茂雄監督の初年度に当たる1975年は66敗と振るわなかった。そしてこのシーズン終了後、今年なくなられた富田勝さんとともに張本勲との交換トレードでファイターズに移籍した。


ァイターズ移籍後の高橋一三さんは腰痛に悩まされたこともあって、ジャイアンツ時代の豪快な本格派から、それこそ180度の変身で技巧派、軟投派に変身した。緩急織り交ぜて、といえば聞こえがいいが、印象でいえば、緩緩急くらい、緩いボールの比率が高かったような印象がある<>


大沢啓二監督の下、Bクラスの常連チームが徐々に力を付けてリーグの頂点に立つのだが、優勝争いに加わった1980年~1982(1981年に後期優勝、リーグ優勝、1982年に後期優勝)の高橋一三さんは当時のファイターズでは数少ない優勝経験の持ち主ということで、大沢監督の信頼も厚く、1980年には投手のタイトルをほぼ総ナメにした木田勇がいながらも、ここ一番の試合では高橋一三さんが先発に抜擢されることが多かった。


ジャイアンツで公式戦で5度、日本シリーズで4度胴上げ投手(優勝決定試合で勝利投手)になった高橋一三さんがファイターズで唯一優勝を体験した1981年には古巣ジャイアンツとの後楽園シリーズと呼ばれた日本シリーズで、第1戦と第5戦に先発した。


1983年にファイターズで現役引退。奇しくもジャイアンツのV9時代の両輪、一歳年下で一年後輩の堀内と時を同じくして引退。引退するとすぐに古巣ジャイアンツからコーチとして招かれ、その後ファイターズでもコーチを務める。ファイターズのコーチ時代には監督昇格の噂もあったが、本人が体調に不安があるとして固辞してコーチで有り続けたという。またジャイアンツでは堀内監督時代に二軍監督を務めていたが、2005年には堀内監督下で成績不振であったため、噂、報道レベルでは最悪の事態には監督代行をつとめる筆頭候補と目されていた。


野球人としての最後のキャリアは山梨学院大学の監督。2009年から監督を務め、2013年秋のシーズン後、体調不良を理由に退任した。同大学での教え子で、退任の年にドラフトで指名されたのが現ファイターズの高梨裕稔だ。
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敗戦処理。は
高梨の時代はきっと来る…。と信じているが、残念ながら恩師にその時代を見せることは出来なかった。


冒頭にも書いたように、敗戦処理。が日本のプロ野球に興味を持ち始めた時の贔屓チームの花形選手。高橋一三さんの背番号が21で、堀内の背番号が18だったので、「背番号18」がエースナンバーと言われるのと同じくらい、「背番号21」は準エースというか、第二のエースがつけるステータスのある番号だと敗戦処理。は勝手にそう思っていた。少なくともジャイアンツでは高橋一三さん以後も、加藤初、宮本和知、チョ・ソンミン、高橋尚成と、そうそうたる顔ぶれ。これは「背番号21」に「背番号18」に準じた好投手が付けるという、敗戦処理。の勝手な不文律を守る系譜であった。それが今季は途中入団したホアン・フランシスコに「背番号21」を与えてしまった。
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フランシスコが期待外れだから言うのでなく、途中入団だから空いている番号の中で良い数字を選んだという事情があるにせよ、これは残念である。



もちろんこれはフランシスコが悪いと言うより、高橋尚のFA移籍後、「背番号21」にふさわしい投手を育てられなかった事が問題なのである。


原監督になってから「第○○代巨人軍四番打者」と称せられるはずの巨人の四番の存在感が軽くなったのは否めないが、それと同等、フランシスコに「背番号21」を与えてしまったのは、伝統を重んじるジャイアンツという球団において、その存在意義が揺らいでいる一端だと思わざるを得ない…。






菅野智之19内海哲也26澤村拓一15杉内俊哉18…それぞれに由来、理由はあろうが、「背番号21」が空き番になったことが残念な事態を招いた。高橋一三さんの胸中は如何に…!?


最後になりましたが、高橋一三さんのご冥福を心よりお祈りします。

 

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