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2013年8月27日 (火)

追悼 土橋正幸さん

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また一人、昭和の名投手が去った。
24日、元東映フライヤーズのエース投手で、後に日拓ホームフライヤーズ、ヤクルトスワローズ、日本ハムファイターズで監督を務めた土橋正幸さんがなくなられた。享年77歳。

敗戦処理。は土橋さんの現役時代を観ていない。ファイターズファンであるが、ファイターズの監督というよりスワローズの監督という印象が強く、「プロ野球ニュース」の解説者という印象も強い。


(写真:プロ野球マスターズリーグで東京ドリームスの監督を務めていた時の土橋正幸さん。 20071月撮影=隣は元TBSの石川顕アナウンサー)



土橋正幸
さんは旧東映フライヤーズに昭和31(1956)に入団。三年目の昭和33(1958)2116敗を皮切りに、翌34(1959)には27勝、昭和36(1961)には30勝を挙げるなど7年連続二桁勝利、12年間で通算162135敗、通算防御率2.66という活躍でエースとして君臨した。フライヤーズが優勝した昭和37(1962)には日本シリーズの最優秀選手に選ばれた。セネタースからファイターズに連なる球団史で日本一に輝いたのはこの年と北海道移転三年目の2006年だけ。長い球団史で日本シリーズ最優勝選手に輝いたのはこの年、土橋さんと共に選ばれた種茂雅之さんと、稲葉篤紀の三人だけである。また、フライヤーズ一筋だった土橋さんの通算162勝は球団史上最多勝利投手でもある。

「プロ野球ニュース」
の土橋さんの印象が強いファンには気っぷの良い語り口とともに、いかにも「昔は頑固だったんだろうな…」と思わせる風貌が印象に残っていると思えるが、実際面倒見の良い親分肌であると同時に指導者としては頑固で厳しかったそうだ。

江本孟紀が何かの本に書いていたが、プロ野球の世界に入ってくる新人は皆、それまで自分がやって来たことに自信を持っているから、プロに入ってコーチから今まで言われたことのないような事を言われると素直には聞けないことがあるらしい。江本も例外ではなかったそうだが、東映フライヤーズに入団した当時の投手コーチが土橋さんで、同僚の高橋善正が土橋さんに殴られてワンパンチで3mくらい吹っ飛ばされたのを見て、コーチや先輩に逆らってはならないと悟ったという。最後まで守っていたらああいう幕引きにはならなかったと思うが…。


東映フライヤーズが身売りした日拓ホームフライヤーズは昭和48(1973)だけの一年間のチームだったが、この年の二シーズン制のパ・リーグの後期に土橋さんは監督を任される。借金2ながらホークスと並ぶ3位タイと健闘したが、球団が日本ハムに身売りしたこともあって退陣する。土橋さんは監督を引き受けるに際して当時主砲だった張本勲を選手兼ヘッドコーチにした。現役引退後、指導者として一度もユニフォームを着ていない張本の唯一のコーチ歴であった。

余談だが日曜日朝のTBSテレビ系列の「サンデーモーニング」の御意見番コーナーで大沢親分こと大沢啓二氏がなくなられた後に最初に助っ人として張本と共演したのが土橋さんだった。大沢親分の系譜を継ぐ切れの良い江戸っ子べらんめえ口調。張本の暴走を窘められる先輩格ということで敗戦処理。は“ポスト親分”として土橋さんに期待したが、一週のみの登板で、以後現在に至るまで週替わりの助っ人が張本と共演している。

土橋さんが昭和48(1973)に後期に監督を務めたというのは東映時代から指揮をとっていた田宮謙次郎監督が前期に5位と低迷したからテコ入れで監督交代があったと推測するが、敗戦処理。が最も印象の濃いスワローズの監督も、昭和59(1984)武上四郎監督が成績不振でシーズン途中に休養し、代行を務めた中西太監督代行も不振に歯止めがかからず代行の代行という形で土橋さんにお鉢が回った。チームの過渡期だったのだろう、土橋さんはこの年の途中から昭和61(1986)までスワローズの監督を務め、関根潤三監督にバトンタッチした。

当時のスワローズは広岡達朗監督の元で球団創立史上初のリーグ優勝、日本一を達成した後であったが、急激な管理野球の成果の反動が来たかのように再び低迷。野村克也を監督に迎えてID野球が結実する前の時期。当時のセ・リーグでは横浜大洋ホエールズと最下位争いの常連で、そのホエールズの近藤貞雄監督がスワローズ戦で敗れた際に「あんなヘボチームにやられるなんてウチはヘボヘボだ!」と言っていた。


ファイターズの監督就任は1992年で、奇しくもその近藤貞雄監督の後任。大沢親分、高田繁監督、近藤監督と毎度毎度外部からの監督招聘に辟易していた球団幹部から「誰かOBで監督が出来る奴はいないのか?」との声が高まって指名されたというが、5位に低迷して一年で退任。以後、このチームのOBで監督に就任したのは移籍組だが大島康徳だけ。歴代優勝監督の顔ぶれを見ても、土橋さんがエースとして優勝した時が元ジャイアンツの水原茂監督だったし、後楽園時代は大沢監督。そして北海道移転後はトレイ・ヒルマン、梨田昌孝、昨年の栗山英樹監督と、いずれも監督に就任するまでファイターズと縁の無かった人物ばかり。土橋さんがどうこうというより、OB(生え抜き)が力を発揮する土壌がないのだろう。そもそも善し悪しはともかく最近二十年間で、OBが監督を務めたシーズンが四年間しかないなんて球団はファイターズ(とオリックス・バファローズ)だけであろうCdsc_3513
(写真:日本ハムになってから日本一に輝くまでの歴代監督のベースボールカード。敗戦処理。所有)

なくなられたからいう訳ではないが、三度の監督経験はいずれも就任の経緯に同情の余地があったように思える。


前エントリー、822日付週刊ベースボールの名物連載“豊田泰光のオレが許さん!”が次週発売号で終了 で豊田泰光さんが週刊ベースボールの名物連載を終了することを書いたが、土橋さんも古き良き時代を語ることの出来る貴重な語り部だっただけに本当に残念だ。

豊田さんは日本経済新聞のコラムの方は引き続き連載するようでいつまでもお元気でいて欲しいが、尾崎行雄 さんといい、土橋さんといい東映フライヤーズの象徴そのもののような二人が相次いで旅立たれたのは非常に残念である。張本の「サンデーモーニング」での発言には賛否両論あるが、張本には大リーグ嫌いはともかく日本のプロ野球、特に今より圧倒的に陽が当たらなかった昭和のパ・リーグを語る生き証人として土橋さんの分までまだまだ頑張って欲しいものだ。野村克也がいるとはいえ、野村もやや独善的なきらいがあるし、何と言っても一部のファンからは“南海ホークスをダメにした張本人”ともいわれている。まあそれだけパ・リーグには個性的な豪傑が多かったということなのだろうが…。


最後になりましたが、土橋正幸さんのご冥福を心よりお祈りいたします。


P.S.
土橋さんのファイターズ時代に撮影した写真がないので、冒頭の写真以外は敗戦処理。が所有するベースボールカードを撮影しました。

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