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2012年12月31日 (月)

今年最後のエントリーは松井秀喜で締めよう

Cdsc_01ついに2012年の大晦日を迎えました。今年も拙blogをお読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。今年最後のエントリーは日本時間の28日朝に現役引退を表明した松井秀喜で締めることにします。

 

星稜高校時代に見た高校生離れした本塁打に魅入られ、1992年のドラフト会議で当時復帰したばかりの長嶋茂雄監督が抽選で引き当てたときの嬉しさは今も忘れられない。「これで向こう二十年ジャイアンツは安泰だ!」とマジで思った。当時はまだ野茂英雄の渡米前。フリーエージェント制の導入は噂では挙がっていたが、ジャイアンツのスター選手が大リーグに流出するなんてことは考えていなかったからだ。

だが、松井は日本の読売ジャイアンツで十年間プレーした後、フリーエージェントの権利を行使してニューヨークヤンキースにわたり、日本と同じ十年間、大リーグでプレーして現役生活に終止符を打った。


(写真:敗戦処理。が最後に生で観た松井秀喜の本塁打。ヤンキースの一員として来日した2004年のジャイアンツ戦での特大弾。20043月撮影)



タンパベイ・レイズから戦力外通告を受けて半年近く、本人が望むオファーが無かったのだろうから、
2012年限りでの現役引退もあるかなと個人的には覚悟できていた。だがこの暮れの押し詰まった時期まで引退表明がなかったので、年が明けてもオファーをじっと待つのかなと思っていた。そんななか、前日の27日にサンケイスポーツが1面で「引退か?」との記事を載せてきた。
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“引退か”の“か”を折り目に重ねるあざとさはともかく<>、記事を読むと本人や関係者の証言がある訳ではないが、例年オフに使用している練習施設を予約していない等の状況証拠から引退に向けての準備をしているのではないかと言うことだった。そして翌朝、起きたら日刊スポーツの1面に「引退を決意」と出て、テレビを付けるとニューヨークのホテルで記者会見の準備が始まったと伝えていた。

ジャイアンツファンの敗戦処理。としてはジャイアンツ時代の豪快な打棒はもちろんのこと、ファンやマスコミへの真摯な対応等を含め、ON以来のジャイアンツが産んだスーパースタートして心から応援した。

復帰一年目の長嶋茂雄監督が、リーグ優勝の望みが薄くなった終盤戦でルーキーの松井を三番に据えたときにはさすがに時期尚早かなと思ったが、翌年落合博満をフリーエージェントで獲得して四番を固定すると、落合が後ろにいることで徐々に三番らしい三番打者へと成長し、入団四年目の1996年にはドラゴンズの山崎武司と本塁打王を争うほどに成長した。

1997年には清原和博が加入し、松井と清原で三、四番を組むようになる。清原はジャイアンツではライオンズ時代ほどの輝きは失せていたが、松井は実質的に打線の中軸となっていき、1998年には初の本塁打王となった。この間、何回か四番打者の座をうかがうも、なかなか結果が伴わず清原以外にも広沢克己、石井浩郎といった移籍組に四番の座を奪われ、後輩の高橋由伸に四番の座を奪われたこともあった。

04松井が不動の四番として君臨したのは2000年から。この年は工藤公康、ダレル・メイ、江藤智といった大型補強が奏効し、ジャイアンツは四年ぶりセ・リーグ制覇。松井は本塁打と打点の二冠王に輝き、MVPにも選ばれた。日本シリーズでも3本の本塁打を放ち、王貞治監督率いるホークスとのON対決を制してMVPに選ばれた。こうなると個人目標では背番号55の由来となっている王の年間本塁打55本超えと三冠王獲得が期待される。2002年には本塁打を初めて50本の大台に乗せたがそこまで。三冠王に近い位置にいたがドラゴンズの福留孝介に首位打者を奪われて三冠王を逃した。この年、フリーエージェントの資格を取得し、ヤンキースに移籍した。

松井の大リーグ志望に気付いたジャイアンツは一年前の2001年の契約更改で破格の7年契約を提示したり、天然芝が当たり前の大リーグ環境に憧れていると知ると東京ドームに掛け合って当時最も天然芝に近いと言われるタイプの人工芝に貼り替えさせる(貼り替えの計画はあったが、ジャイアンツの意向によって一年間前倒しした。)が松井の心を翻意させるには至らなかった。さらにいえば、2002年の組織改定に伴い、ビジターユニフォームの文字を「TOKYO」から「YOMIURI」に代えたのも松井には球団不審に繋がったようだ。

2002年に松井が福留と首位打者争いしていた時には福留がシーズン終盤にセーフティバントを試みたり、試合途中に退いたりと打率が下がることを防ぎにかかると、ドラゴンズファンの間からも「恥ずかしいことはやめろ」との意見がネットの掲示板で出た。松井はジャイアンツが優勝したこともあって日本シリーズに向けて調整しなければならないという事情があったが、それ以前に当時、連続試合フルイニング出場を続けていてシーズン最後まで退かなかった。もちろんこれは金本知憲の記録には遠く及ばないレベルであったが、ジャイアンツでの最後の三年間は全試合に四番で出て、なおかつフルイニング出場を続けていた。


この当時は(敗戦処理。もそうだが)ネット利用者が急増した時期で、ファンの数も多いがアンチ派も圧倒的に多いジャイアンツを応援するファンにとって松井はFA移籍でも逆指名入団でもない、何の後ろめたさも感じずに応援できる真のヒーローといえた。入団の経緯だけでない。前述したようなファンやマスコミへの対応の真摯さ、時折死球を受けても特に相手を威嚇するでもなく一塁に歩く姿も好感を持てた。あらゆる面でジャイアンツファンにとって松井は理想的なジャイアンツのスター選手だったのである。

「中心なき組織は機能しない」とは野村克也の口癖だが、松井を失ったジャイアンツに松井に代わる求心力を持ったリーダーはすぐには現れなかった。本来なら高橋由伸にその後継を求めたいところだったろうが、性格的にタイプでなかったのか高橋由はリーダーにはなれなかった。そして生え抜きではないがリーダー的存在感のあった清原は残念ながらピークを過ぎており、既に年間を通してフルに出場できる身体ではなかった。それでも相手投手に威圧感だけは植え付けたかったのか、超カリスマの長嶋監督が退任してタガが緩んだのか“番長”キャラで後輩を締めたり等グラウンド外での存在感ばかりが際立つようになっていった。

大リーグに行ってからの松井には正直、そんなに強い思い入れはなかった。そもそも大リーグの野球に興味が薄いからだが、それでもヤンキースのジョー・トーリ監督が松井がジャイアンツ時代にこだわっていた連続出場に配慮してくれ、通常は必要に応じて主力選手にも与えている公休日を松井には設定しなかった。

ヤンキースでの一年を終えた松井は2004年に早くも日本に凱旋した。ヤンキースがタンパベイ・デビルレイズ(現レイズ)と日本で公式戦の開幕戦を行うことになったからだ。もちろん松井人気を当て込んでの対戦カードだろう。冒頭の写真はその時に行われた大リーグの開幕戦の前の前の、古巣ジャイアンツとのエキシビジョンマッチでの一発だ。対戦したジャイアンツの先発投手、高橋尚成が空気を読んだのかもしれないが、松井は第一打席でセンター後方に特大の本塁打を放った。

因みにこの試合、トーリ監督が粋な計らいをしてくれた。ジャイアンツとの試合だけ、松井を「四番・センター」で起用したのだ。
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英語で放送された、敗戦処理。には今一つわかりにくいスタメン紹介で四番が松井とわかったとき、早くもスタンディング・オベーションが起きたのを覚えている。
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また、この試合では当時日米野球などでは禁止された日本流の鳴り物応援が普段通りに行われた。一回表のヤンキースの攻撃の時は静かで、一回裏のジャイアンツの攻撃ではいつもの通り。そして二回表、松井が先頭打者として打席に入ると、ライトスタンドのジャイアンツファンが「ホームラン、マ・ツ・イ!」と大合唱を始め、あっという間にスタンド全体
360°から「ホームラン、マ・ツ・イ!」のコールが起きた。そんな中での特大弾だった。第二打席ではおなじみのヒッティングマーチも演奏された。松井はFA権を行使するときの記者会見で「裏切り者と言われるのは覚悟の上…」と苦渋に満ちた表情で述べていたが、一部のファンを除き、松井をファンが愛し続けていることを示すいい空気が東京ドームに満ちていたと思う。

順調にヤンキースでのステップアップが成されているなと思った四年目の2006年、松井は第1回となるWBCへの出場要請を受けたものの固辞したのは残念だった。そしてこの年にレフトの守備で左手首を骨折。あれだけ人工芝を嫌い、天然芝のグラウンドにこだわった男が天然芝のグラウンドで骨折し、ジャイアンツ時代から続いていた連続試合出場記録が止まったのは皮肉だった。個人的にはここで松井秀喜に対しての時計は止まった。

それでもそれから三年間ヤンキースでプレーをし、その後はエンゼルス、アスレチックス、レイズと一年ごとに所属チームが変わり、そのたびに日本復帰があるかのような報道に接するようになった。松井自身が日本復帰を選択肢に含んでいないことは明白だったが、そのたびごとに敗戦処理。は「ジャイアンツで現役生活を締めくくって…」と淡い期待をしては、「ないな…」とため息をついたものだった。

 

今回の引退発表に際して日本ではジャイアンツファン以外も松井に労いの言葉をかけているのが印象的だ。ツイッターで目にしたタイガースファンのツイートでは“西岡も福留も要らんから松井にベンチで座っているだけでも良いからタイガースのユニフォームを着て欲しかった”という趣旨のものもあった。

日本球界より頻繁に移籍が行われる大リーグでは、移籍を繰り返して引退した選手に対し、最初に所属して長く在籍した古巣球団に一日限定で復帰するセレモニーの様なものがあるという。松井に対してヤンキースが検討しているという。何とも名誉なことではないか…!将来、大リーグの野球殿堂入りを果たすのではという声まで挙がっているという。松井がエンゼルスに移籍してヤンキースタジアムでの試合に出場した時に大歓声で迎えられたシーンをテレビで見たが、松井が日本のファンだけでなく、大リーグのファンにも所属チームの枠を超えて愛されていることがうかがえた。巷では早くも“ジャイアンツに指導者として…”などとの声も挙がっているが、それも楽しみな半面、そこまで大リーグで評価されているのならば大リーグで指導者になって欲しいくらいだ。日本のように現役時代の名声があれば優先的にコーチになるシステムでないアメリカ球界でも松井なら着実にステップアップも出来るかもしれない。

んな松井だが、日本時間28日朝に行われた引退会見では現役生活の一番の思い出は、ワールドシリーズでのMVPではなくジャイアンツ時代の恩師、長嶋監督の前で繰り返した素振りだったと挙げたそうだ。
Cdscf_0103なるほどと思う。長嶋監督は松井の入団時、1000日かけて松井を真の四番打者にする」と言っていた。実際にはさらなる日数を要したが、若い頃のこの積み重ねがあって「巨人の四番」、ヤンキースの主力という松井の姿があったのだろう。

ただ、ジャイアンツ時代の松井に強いて物足りなさを挙げるとしたら、前出の王貞治55発超えと三冠王獲得のどちらも達成せずに海を渡ってしまったこともあるが、チームメートにも相手球団にも真のライバルがいなかったことである。古くはON=王貞治に長嶋茂雄、山本浩二衣笠祥雄、秋山幸二清原和博といったような二枚看板にならなかったこと。これまた前述の様に落合獲得を始め、当時次から次へと中心打者を獲得していったが彼らはライバルではなかった。
Cdscf_0040強いて言えば四番松井、五番清原と並ぶ打線が壮観だったが、ちょっと違う。高橋由伸も格不足という感じだった。対戦相手でも当時カープのエース格だった黒田博樹やベイスターズで真っ向勝負をしていた斎藤隆、1歳年上のスワローズ石井一久が好敵手という感じだったが清原
VS野茂英雄イチローVS松坂大輔のような名勝負を演じる相手には恵まれなかった。これはダルビッシュ有にも当てはまるのだろうが、ライバル欠乏症はより高いステージへの移籍願望を加速させる後押しになってしまうのだろう。


松井はおそらく敗戦処理。が生で最も多く本塁打を観た打者だ。ありがとう松井秀喜。いつかまたジャイアンツのユニフォームを着て欲しい気持ちはもちろんだが、松井にはもっと高いステージで指導者の道を進んで欲しい思いもある。ただ、もし出来れば来春のジャイアンツのオープン戦で引退セレモニーを行って欲しい。今世紀になってからジャイアンツで引退セレモニーらしい引退セレモニーをしてあげられたのは長嶋監督と、同じタイミングで現役引退を表明した槙原寛己、村田真一、斎藤雅樹、の三選手と、2005年の元木大介、後藤孝志、西山秀二と、後に引退を撤回した川相昌弘くらいだ。他はせいぜいファンフェスタでの引退スピーチくらいだ。フリーエージェントで自ら去っていった選手とはいえ、その功績に報いて欲しい。今後のことはそれからだ。


これが今年最後のエントリーです。どうか皆様、よいお年をお迎えください。

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