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2012年7月 2日 (月)

「ありがとう東京」北海道移転を決めたファイターズ、東京ドームでの本拠地最終戦【回想】敗戦処理。生観戦録-第30回 2003年(平成15年)編

Cdsc_01 これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた敗戦処理。が生観戦した野球場が58ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。


1974(昭和49)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。

【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year30回 2003(平成15)


(写真:東京ドームラストイヤーの本拠地最終戦で貼られた「ありがとう東京」のポスター)

この前年にファイターズの2003年シーズン後の北海道移転が発表された時には、ついに「来るべき時が来てしまったか…」という気がした。敗戦処理。が日本のプロ野球に興味を持ち始めた頃からこのチームはジャイアンツと同じ後楽園球場、そして東京ドームを本拠地としていた。ただ、いつもジャイアンツと同居といってもジャイアンツ優先の日程組みなどジャイアンツが表でファイターズが裏という印象からは脱却できずにいた。敗戦処理。が子供の頃、ファイターズはパ・リーグで最多の観客動員を記録する球団だった。それは当時としては画期的な子供向け、ちびっ子向けのファンクラブ設立などの先進的な経営戦略の賜と思われていた。それがライオンズが福岡から埼玉・所沢に移転してきてから新鮮味も相まってライオンズに観客動員を抜かれると尻すぼみ。東京ドーム誕生直後こそ「東京ドームバブル」で盛り返したが、その後は年々減少を繰り返していた。活路を見出すには新天地に移転が一番とは敗戦処理。も頭ではわかっていたが、それが自分の住んでいる東京からの脱出となると、どうしても論理的に考えられない面もあった。また大金を投じて構築したファイターズタウン鎌ヶ谷の存在が東京圏からの移転を否定しているとの見方も存在した。

そんななか、2001年に札幌ドームが出来た。北海道で年間を通して野球をするにはドーム球場が必要だ。それまで十二球団が代わる代わる試合を開催していた札幌円山球場は近くにある動物園への配慮でナイトゲーム用の照明を付けることが出来なかったのだ。

しかしドーム球場を作るとなると、それを運営するには常に使ってくれる利用者がいなければ成り立たない。最初に札幌ドームを使用しようとしたのはライオンズ球団だった。当時の堤義明オーナーの構想で、札幌ドームを準本拠地とし、主催試合を徐々に西武ドームから移管し、半数近くを札幌ドームで行う構想だった。実際、札幌ドームが出来た翌年の2002年にはライオンズは開幕戦(対マリーンズ戦)を札幌ドームで開催した。正直、ライオンズのこの動きの早さに、「ファイターズは何をやっているんだ…」と敗戦処理。は地団駄を踏んだものだった。

そこに来て2002年3月、ファイターズの北海道移転が北海道新聞のスクープから明らかに。球団も認めた。「ついに踏み切ったか!」と思う半面、ライオンズの準本拠地化の話が先に出ていたことから地元の人達に「ライオンズの方が強いからいい…」と言われるのではないかと不安にもなった。

この発表のあった2002年には日本ハム本社の食肉産地偽装が発覚。道民から反感を買い、北海道から受け入れを拒否されるのでは?とか、移転が中止になったら本社の財政が厳しくなり、球団を身売りするのではなどと悪い噂が流れたこともあった。既に本社の経営の第一線から退いていた、球団の大社義規オーナーが引責辞任をしたことも懸念を大きくさせた。この後ファイターズはしばらくオーナー不在という時期を過ごす。当時ネットではあまりにもタイミングの良い不祥事の発覚に、調べ上げたのは堤オーナーの命を受けた者達ではないかとの噂が囁かれたがもちろん噂の域を出ないレベル…。

そんな苦況の中で迎えた東京ラストイヤーの2003年。新監督にトレイ・ヒルマンを迎えた。大リーグの名門、ニューヨーク・ヤンキースの次の次か、そのまた次くらいの監督候補と言われていた人物の投入で球団の本気度を感じた。提携していたヤンキースでコーチ留学の経験がある白井一幸、田中幸雄(もちろんオオユキの方)の両指導者がヒルマン新監督のサポート役としてファームから引き上げられた他、二人の外国人コーチも起用された。

ヒルマン新監督は当時不動のレギュラーだったセンターの井手竜也に代えて前の年に内野手から外野手に転向したばかりの入団五年目の森本稀哲を抜擢するなどの荒療治をしてチーム改革を目指したがすぐには成果が出ず一年目は5位に終わった。二年連続パ・リーグ首位打者の小笠原道大と、タイガースから移籍の坪井智哉が目立ったくらいのシーズン。そしてついに9月28日、本拠地としての東京ドーム最終戦を迎えた。

 

 

当時の観客動員数はいわゆる概数発表であったが一応50,000人と発表された。実際満員に近い観衆が最後の東京ドームに詰めかけたのは間違いなかった。

ライオンズ

()松井稼頭央

()小関竜也

()和田一浩

()中村剛也

()大島裕行

()中島裕之

()マクレーン

()細川亨

()平尾博嗣

()三井浩二

ファイターズ

()井手竜也

()坪井智哉

()小笠原道大

()エチェバリア

()島田一輝

()木元邦之

()高橋信二

()金子誠

()奈良原浩

()ミラバル

Cdsc__6

ファイターズにとっても重要な試合だが、相手のライオンズにとっても重要な試合だった。ライオンズはこの試合に負けると、ホークスのこの年のパ・リーグ優勝が決まってしまうのだ。パ・リーグが今のクライマックスシリーズの前身のプレーオフを導入するのはこの翌年の2004年から。レギュラーシーズンで優勝を逃せばそれでオシマイという時代だった。ホークスはもっと早く優勝を決めていてもおかしくない状況だったが優勝を目前にして足踏み。日曜日のこの日はライオンズがデーゲームでホークスはナイトゲームと時間差があるため、ライオンズは勝たなければならない試合だった。

ただ、その割には本塁打王争いをしているアレックス・カブレラが休養。首位打者争いの選手の欠場は珍しくはないが、本塁打王争いの最中に欠場するのは珍しい。しかもわずかに残る逆転優勝の可能性のためにも主砲の欠場は避けたいはずなのに…。そしてカブレラの代役で四番に座ったのは上記の通り中村剛也、今や「おかわりくん」だ。中村にとっては初の四番。おそらく伊原春樹監督はカブレラが外れることで打順が大幅に変わることを避けたかったのであろう。ただこの年は開幕カードもライオンズ対ファイターズ(西武ドーム)で、開幕戦でも四番に新人の後藤武敏を起用していたので「最初と最後にライオンズに舐められたのか…」と敗戦処理。は感じた。

試合はその代役四番、中村のバットから始まる。

一回表、ライオンズはファイターズ先発のカルロス・ミラバルに襲いかかり、先頭の松井稼頭央が二遊間を破る安打で出塁すると続く小関竜也がバントで進めて二塁へ。二死後、二死二塁で四番中村の初打席。中村はセンター井出の頭上を越す二塁打を放ち、ライオンズが1点を先制した。ミラバルは悪かったのは立ち上がりだけで、尻上がりに調子を上げてその後は失点を与えない。

ファイターズは当時相性が良くなかった三井浩二を打ちあぐねていたが、四回裏に二死から高橋信二がセンターオーバーの二塁打で出ると、金子誠奈良原浩の連打で同点に追いついた。

北海道移転を前にしての最後の本拠地での試合の相手先発が北海道足寄志出身の三井というのも因縁を感じる。三井の右打者の胸元を容赦なく攻める投法は当時、ファイターズのみならず他球団には脅威だったが、一時期、このボールは三井の後援会長の名前に因んで「ムネオボール」と名付けられていたが、諸事情により「チハルボール」と改称された。

試合が硬直してきた中盤、スタンドが異様に盛り上がるシーンがあった。

1対1の同店で迎えた六回裏、ファイターズは五番の島田一輝からの打順であったが、島田がバッターボックスに向かった後、ネクストバッターズサークルに次打者の木元邦之に変わって田中幸雄が姿を現した。

ネクストバッターズサークルに「ミスターファイターズ」が姿を現しただけで、一塁側スタンドを中心に大歓声が起きた。この日は田中幸の母校、都城高校の後輩達が修学旅行のスケジュールの一環で観戦していたこともあったが、当時2000本安打に近づきながら、出場機会が減り始めていた生え抜きのベテラン選手をこの試合に出さないなどということはファン心理としてはあり得ないからである。

Adsc_0704 この日、ファンにプレゼントされたファイターズ選手のオリジナルベースボールカードには裏面に東京ドームへの惜別メッセージとサインが印刷されているのだが、田中幸雄は16年間有難うございました」と太い字で書いた。このメッセージはオーロラビジョンにも流されたのだが、一瞬引退声明かとも錯覚しがちなこのメッセージが余計に郷愁をそそった。田中幸は旧後楽園球場時代に入団した選手だから、東京ドームとは設立以来のつきあいで、それが16年間という言葉の意味なのだが…。

Cdsc__1 大歓声に迎えられた田中幸だったが、三井からいい当たりの打球を放ったがファーストライナーに終わった。

そして1対1の同点で迎えた七回裏、ファイターズは先頭の金子がレフト線の二塁打で出てチャンスを作ると、続く奈良原のショートゴロの間に三塁へ進み、一死三塁と勝ち越しのチャンス。ここで井出がショートゴロを放ち、金子がホームでタッチアウト。これでチャンスを逃したかと思ったが、坪井が二塁への内野安打でつなぐと、主砲小笠原のフルスイングから生まれた打球は左中間ど真ん中を破り、二者生還で3対1とリードした。

Cdsc_ 今と違って数年に一度、思い出したかの様にAクラス入りするという程度のファイターズにあって2000年前後から急速に頭角を現してきた小笠原はチーム低迷の中での孤軍奮闘というイメージが強かったが、この最も大事な試合でもファイターズファンを勇気づけてくれる魂の一打でチームの勝利を引き寄せた。

ここで北海道日本ハムファイターズならセットアッパー、クローザーとつないで逃げ切れるところだが、日本ハムファイターズはそうはいかない…。尻上がりのミラバルに行けるところまで行かせるのが最良の策だと当然思えた。実際六回以降はノーヒットに抑えていた。しかしライオンズも自ら逆転優勝の可能性を0にする訳にはいかない。

九回表、最終回のマウンドにもミラバルは上がった。ライオンズには悪いがここはファイターズが最後の東京ドームでの本拠地試合を飾らせてもらうぞと思った瞬間、先頭の宮地克彦にライト前に運ばれた。あれれと思っていたら、続くスコット・マクレーンに高々とレフトスタンドに運ばれて3対3の同点にされた…。

さらに一死後、平尾博嗣にレフト前に運ばれるとファイターズベンチはついにミラバルを諦め、サウスポーの清水章夫をマウンドに送った。清水は松井をセンターフライに打ち取ったまではよかったが、続く左対左となる小関に四球を与え、右打者の和田一浩を迎えるところで降板。三番手の芝草宇宙がマウンドに上がった。その芝草が和田を歩かせて二死満塁としてしまうと、あろう事か続く四番の中村にも四球を与えてしまい、押し出しでライオンズに勝ち越し点を献上してしまった。

日本ハムファイターズは最後まで日本ハムファイターズだった…。

この後、続く左打者の大島裕行の場面で再びサウスポーの加藤竜人をつぎ込み、代打の犬伏稔昌を三振に仕留めたものの3対4と逆転された。ファイターズ打線は九回裏、ライオンズ三番手の森慎二の前にあっさりと三者凡退で最終戦を飾ることが出来なかった。

2003年9月28日・東京ドーム】

L  100 000 003 =4

Fs 000 100 200 =3

L)三井、○潮崎、S森-細川

Fs)●ミラバル、清水、芝草、加藤-高橋信

本塁打)マクレーン26号2ラン(ミラバル・9回)

ホークスと優勝争いを繰り広げたライオンズは、自らの敗戦によってホークスの優勝が決まるという屈辱を免れた。そしてこの夜、ホークスはバファローズに敗れて優勝決定は先送りされた。ただこの日の試合後、伊原監督は辞意を表明した。

そして試合終了後、最終戦セレモニー「ありがとう東京」が開催された。

ファームを含めた全選手、コーチ、監督が東京ドームのグラウンドに勢揃い。まずはヒルマン監督が挨拶。

Cdsc_01_2 もちろんシーズンの総括というものにとどまらず、1974年に日本ハムが球団経営を始めてからの三十年間の感謝を込めてという形。「来季も予定されております東京ドームでの試合で、皆様にお会い出来ることを一同心待ちにいたしております」(通訳:岩本賢一通訳)の部分でスタンドから大きな拍手が起きたのは言うまでもない。

続いて当時選手会長だった岩本勉が選手を代表して挨拶。

Cdsc__2 「我々選手は優勝に向かって頑張っていきたいと思います」と言ったときに「オマエも頑張れよ!」という声がスタンドから飛んだのは愛嬌として、「東京ドームの施設管理の方々、いつも照明を担当されている方そしてグラウンド整備を朝早くから夜遅くまで担当していただいている方々、本当にありがとうございました」と言った部分に岩本の人間性を感じた。

岩本は当時、投手としては下降期に入っていた。岩本は2005年限りで現役を引退したが、2006年の東京ドームでのオープン戦で行われた引退セレモニーでのスピーチ(始球式のマウンドに上がる際に、事前に録音したものが放送で流された)でもファンやチームメート、家族への感謝だけでなく東京ドームのスタッフへの感謝を示していた。球団のスタッフへの感謝を込める際に含んでいる場合もあるかもしれないが、なかなかこの種のスピーチで、球場のスタッフへの感謝をする人はいない。昨年の嶋基宏のスピーチにも欠落していたくらいで、敗戦処理。もそんなに多くのスピーチをノーカットで聞いている訳ではないが、他にパッと思いつくのは今年からタイガースの監督に就任した和田豊2001年の本拠地最終戦で自身の引退挨拶をする際に阪神園芸のスタッフに感謝の意を示したくらいだ。

この後、センターのスコアボード上空にある球団旗を降ろして外し、全員で場内一周。

Cdsc_01_3 ありがたいことに、レフトスタンドのライオンズファンもかなりの人数が残っていてくれた。

その後、全選手からスタンドのファンにファイティーのぬいぐるみの投げ入れが行われたりし、最後に全員で記念撮影。

Cdsc__3 OB会からは当時の会長、副会長だった土橋正幸、木田勇が加わった。そうしてセレモニーのすべてのプログラムが終了し、グラウンドが無人の状態になった後、小笠原が再度グラウンドに姿を現し、ライトスタンドを中心にサインボールを投げ始めた。小笠原道大という男が本当に東京のファイターズファンを愛してくれていることを痛感した。

Dsc_0694 「ファイターズはどこに行ってもファイターズです。これからも応援して下さい」この言葉とともに、この男について行こうと思った。だから、結果論ではなく2006年オフのFA宣言の時に仮にドラゴンズに移籍していたとしても、小笠原を応援し続けていると断言できる。

セレモニーは終わった。寂しかった。

寂しいのは事実だが、ファイターズ球団がファイターズ球団である限り、どこに行っても応援するしかないと思った。どっちみちこのまま東京ドームに残っていても、事態が大きく好転することはないのだから…。ファイターズファンの知人の中には「移転して遠くに行かれるくらいなら、身売りして親会社が変わっても本拠地が変わらない方がいい」とまで言う人もいた。皆ファイターズを愛する気持ちに変わりはない。いろいろな意見があるだろうが。

横浜ベイスターズの身売り騒動は結局TBSグループが所有する球団株式をDeNAが買い取ることで親会社が変わったが、同時に注目された本拠地の問題は一応変わらずとなった。贔屓球団以外の問題にも口を出しがちな敗戦処理。ではあるが、さすがに移転問題に関しては自重した。

しかし今でも東京都を保護地域とする球団は一つ減ったとはいえ二つある。その東京を通勤圏内とする関東地区に十二球団の半数近い五球団が集中するのが良くも悪くも日本のプロ野球、NPBの実態であり、今後も大なり小なり問題が噴出するだろう。

ヒルマンと岩本が挨拶で言及した、移転後の東京ドームでの主催試合は移転初年度の12試合から10、8と順次減少したがここ数年は8試合で踏みとどまっている。個人的には移転十周年を乗り越えてこの試合数が維持されたら、当分は減少しないと見ているが、一方で自分は地方試合開催の推進論者でもあり複雑な心境だ。

北海道移転後のファイターズは旧東映、旧東急時代などを含めても最高の安定した成績を残している。北海道民から愛され、観客動員数もパ・リーグではホークスに次ぐ2位の座が揺るがない。本当に喜ばしいことだ。将来的に東京時代が黒歴史と見なされる時が来るかもしれないが、歴史とは連なりであり、輝かしい成功は失敗の教訓から産み出されるものがほとんどであり、ファイターズが東京ドームで味わった悲喜こもごもは忘れられてはならないものであると思う。

Cdsc_03

【参考資料】

12球団全選手カラー百科名鑑2003(日本スポーツ出版社)

ありがとう東京・2003年日本ハムファイターズ東京ドーム最終戦セレモニー(DVD=日本ハム球団株式会社)

朝日新聞縮刷版20039月(朝日新聞社)

北海道日本ハムファイターズ球団史ROADMAP to VICTORY 1973-2007(株式会社北海道日本ハムファイターズ)

 

 

P.S.

今日のオマケ

最終戦セレモニーを見守る東京時代の歴代マスコット、ギョロタン<左>とファイティー<右>。

Cdsc__5 ギョロタン、背中のネーム、いいのか<笑>!?

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