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2011年3月 3日 (木)

与那嶺要さんと昭和49年(1974年)

Photo 日本時間今月1日、ジャイアンツとドラゴンズでプレーし、監督を務めたドラゴンズでは1974年にセ・リーグ優勝を果たして古巣ジャイアンツの連続優勝をV9で止めた与那嶺要さんが前立腺がんのため、米ハワイ州ホノルル市内で亡くなられた。85歳だった。

敗戦処理。が野球に興味を持ち始めた時には与那嶺さんはもう既にドラゴンズの監督だった。ジャイアンツが勝つのは当たり前という感覚があった子供の頃の敗戦処理。に、昭和49(1974)のドラゴンズ優勝はインパクトがあった。

与那嶺監督が古巣にリベンジを果たした昭和49(1974)という年は、今思えば七十年を超える日本のプロ野球の歴史でもいろいろな意味で節目の年だったように思える。

(写真:ジャイアンツ球団創立70周年の2004年に東京ドームの試合でオーロラビジョンで流れた「栄光の戦士達」から与那嶺要さんの映像を抜粋)

与那嶺さんの偉大なる足跡に関してはこちらコチラなどを参照していただくとして、当エントリーでは与那嶺監督がリーグ優勝を果たした昭和49(1974)にまずこだわって書いてみたい。

上述したようにジャイアンツが勝つのは当たり前という印象で、実際9年連続リーグ優勝、9年連続日本一などという後にも先にもない長期間の一人勝ち状態に与那嶺監督率いるドラゴンズが終止符を打ったということがまず一つだが、それでも終わってみたら優勝したドラゴンズと優勝を逃した2位のジャイアンツのゲーム差がなかったのだから、本当に紙一重だった。そして衰えが顕著だった長嶋茂雄が現役を引退したのもこの年で、V9メンバーでは他に捕手の森昌彦、長嶋と三遊間を組んでいた黒江透修もこの年限りで現役引退。そしてV9の金字塔を成し遂げた川上哲治監督も勇退。一つの時代が終わった節目の年であることは間違いない。

また制度的にはセーブのタイトルが制定されたのもこの年。アメリカ大リーグで採用されたのに追従した形だが、今日に至る投手分業化の分岐点になったのもこの時期といえる。

セ・リーグを制したドラゴンズには野手出身の与那嶺監督をサポートする立場で近藤貞雄が投手コーチを務めていたが、近藤コーチは「投手の肩は消耗品」が持論で、分業制を推進していた。セーブのタイトルが出来たから分業制が定着したのか、分業制が定着してきたからセーブのタイトルが制定されたのかは大リーグ事情に疎い敗戦処理。には論評出来ないが、いずれにせよ近藤コーチは当時ドラゴンズのエース格だった星野仙一を躊躇なく抑えとしてつぎ込む一方で当時若手だった鈴木孝政を抑えに抜擢して、短いイニングに快速球とフォークボールを集中させて締めくくり、接戦をものにするというパターンをライバル球団に先駆けてドラゴンズのスタイルにした。江夏豊がまだタイガースで先発でエースを張っていた時代だから、ドラゴンズがいかに先を行っていたかがうかがえる。

V9戦士達の加齢による衰えや、ドラフト制度定着によって分散された有力選手が各球団で主力になる様になり、V9以降少なくともセ・リーグにおいては三年連続して同じチームが優勝するケースはその後2007年から2009年のジャイアンツまで現れない。ジャイアンツは2007年にクライマックスシリーズで敗れて日本シリーズ進出を逃しているから、V9以降セ・リーグで三年以上連続して日本シリーズに出場したチームはない。強さの面でジャイアンツ一辺倒の時代はV9時代で一応の終止符を打ったといって過言でなく、連覇はいつか止まるもの、とはいえこの年にドラゴンズが連覇を止めたことは大きな意義を持つと思う。そして全く蛇足ながら付け加えると、敗戦処理。が初めて球場で野球を生観戦したのがこの昭和49年(1974年)だ。

与那嶺監督は現役時代の大半をジャイアンツで過ごしたが、力の衰えた晩年、今でいう戦力外的な扱いを受け、ドラゴンズでプレーすることになった。当時はジャイアンツ出身者を他球団がありがたがる傾向があり、与那嶺選手も例外でなく現役引退後はドラゴンズとオリオンズ(現マリーンズ)のコーチを経て1972年からドラゴンズの監督に就任していた。

与那嶺監督は1972年から1977年までの6年間、ドラゴンズを率いた。これはドラゴンズでは長期政権といえる。これを上回るのは星野仙一が二度の監督期間を合計した場合の計11年間を別とすれば、現在の落合博満(2004年から、現在8年目)しかいない。

ドラゴンズの監督を退任した与那嶺さんは残念ながら日本語が完璧といえる程ではないため、解説者の口を待つよりコーチの誘いを待った。監督退任時に「優勝監督というこだわりはない。どこかの球団でユニフォームを着れたらいい」と語ったが、古巣ジャイアンツから声がかかり、翌1978年から、第一次長嶋茂雄監督期の最後の三年間、コーチを務めた。

長嶋監督の解任(筆者注.辞任じゃなくて解任)、藤田元司新監督就任に伴うコーチ陣の刷新でジャイアンツを退団。しかしこのオフ、ホークスでブレイザー(ダン・ブラッシンゲーム)新監督就任に伴いコーチとして招聘される。ホークスはチーム首脳にブレイザー、B.シュルツ、与那嶺さんと外国人三人を据えたが成績が振るわずそろって二年間で退任。

1983年から二年間はジャイアンツ時代のチームメート、広岡達朗監督の下、ライオンズでコーチを務め、1985年からはジャイアンツの後輩、高田繁が監督を務めるファイターズのコーチを高田監督在任の四年間、コーチを務めた。ファイターズでは高田監督の後任に、ドラゴンズの監督時代にコーチとして片腕となった近藤貞雄が就任。立場が逆転することになることもあり、自ら身を引いたという。1951年のジャイアンツ入団から1988年のファイターズコーチ退任まで実に38年間、ユニフォームを着続けたことになる。日本で野球に携わるには指導者であり続けるしかなかったとはいえ、常にどこかから声がかかっていた訳で、それは即ち必要な人材と思われ続けたということだ。ただドラゴンズでの監督時代の前後、計20年のコーチ生活ではライオンズ二軍コーチの1983年にイースタン・リーグで優勝を味わったのみであった。

訃報を受けて古巣のジャイアンツでは2日に行われた東京ドームでのライオンズとのオープン戦の試合前にオーロラビジョンで生前の与那嶺さんの映像を流し、黙祷を捧げた。ただ、野球殿堂入りを果たしているほどの人物である。公式戦のジャイアンツとドラゴンズのカードあたりで追悼試合を企画して欲しいものである。合掌。

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