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2010年10月 7日 (木)

大沢親分逝く

01 ファイターズ他で監督を務め、最近ではTBS系毎週日曜朝の「サンデーモーニング」の「週刊御意見番」に張本勲と共にレギュラー出演していた大沢啓二さんが7日午前7時25分、胆のうがんのため死去した。78歳だった。

(写真:TBSテレビ系「サンデーモーニング」の企画で古巣ファイターズのファームを視察した大沢元監督。試合後に中田翔、八木智哉らナインに訓辞。 20085撮影)

「サンデーモーニング」「週刊御意見番」を9月26日、103日と二週続けて休み、3日放送分では体調不良を詫びるメッセージを司会の関口宏が代読していたので心配していたが、まさかと思った。

敗戦処理。は同コーナーを録画してでもほぼ毎週観ているが、大沢親分(筆者注.敢えて親しみを込めて当エントリーではこう表記させていただきます。)の声に張りがなくなっているのを感じていた。ただその週は親分の立教大学野球部時代の恩師である砂押邦信氏の訃報を伝える週だったのでそのせいかと思っていた。

敗戦処理。は少年時代からジャイアンツとファイターズを応援している。東京生まれで東京育ちということもあるが、毎日テレビで観ることが出来たジャイアンツと対照的に今よりもずっと地味でマイナーなイメージだったパ・リーグのファイターズに子供の頃の敗戦処理。が惹かれた理由の一つに当時読み始めた漫画「あぶさん」(水島新司原作・小学館「ビッグコミックオリジナル」連載)に時に出てくる豪放磊落なイメージの大沢親分に親近感を持ったことが大きいと思う。主役の景浦安武は新旧のホークス一筋の選手だが、その対戦相手のファイターズの監督として時折出てきた。

特に印象に残っているのはホークスとファイターズの春先のオープン戦で、試合前のあぶさんの打撃練習を見守る野村克也監督(兼任捕手)のもとに大沢親分が歩み寄り、トレードを直談判する回の話。野村監督は「そっちの一塁を出してくれるのなら」と当時のファイターズの中心打者であった小田義人の名前をちらつかせて出す気が無い旨を示唆させる。大沢親分は高橋直樹らの投手陣を呼び集めてこの試合だけは景浦に打たれるな、打たれたら晩飯抜きだ!と厳命するが、結局あぶさんに打たれてしまう。一方小田も活躍する。で、両選手はトレード話が成立したかと思い込み、互いに相手チームのバスに勘違いして乗り込む。その様子を見た、この年にタイガースからホークスに移籍してきた江夏豊が苦笑して終わるのだった。(江夏が移籍した年なので1976年の作品と思われる。また、小田は後年実際にホークスに移籍した。)

大沢親分はファイターズになってからの監督としては中西太初代監督に次ぐ二代目の監督だったが、就任早々、当時の三原脩球団社長主導で行った旧東映フライヤーズの至宝張本勲のジャイアンツへのトレードが実現する。ファイターズでは張本の移籍と前後して旧東映色の強い主力選手を次々と放出して新しいファイターズのチームカラーを形成しようとしていたようだ。主力選手続々放出の穴はドラフトで大学生、社会人の有力選手を上位指名し、即戦力として抜擢することで補っていった。

大学や社会人でエリートの選手達とは言え、プロでさしたる競争もなくポジションを与えられると、実戦で鍛えられる反面競争意識が薄く、その結果、チーム名はファイターズでも闘志を漲らせる選手が少なく、そんなチームを鼓舞するために大沢親分は激しい抗議や味方選手への死球での乱闘で最前線に立ち、それこそ「サンデーモーニング」のコーナーで、マーティ・ブラウンや、かつてのタフィ・ローズが退場処分になるために歴代の退場回数ランキングで紹介されるほどの退場処分数となった。

ドラフトで上位獲得した選手によるポジションが固まるのと加え、張本とのトレードで獲得したV9ジャイアンツの左のエース高橋一三や、ホークスのお家騒動に乗じて獲得した柏原純一が中心的存在になり、監督就任五年目の1980年にはドラフトでその年の目玉の一人である木田勇の獲得にも成功し、その木田の22勝という大車輪の活躍もあって当時の二シーズン制の後期優勝まであと一歩と迫るが、最終戦で高橋一、木田のリレーも適わず敗れ優勝を逃した。大沢親分は契約最終年だったこともあり、辞意を表明するが当時の大社義規オーナーの強い慰留により続投。翌年にはエースの高橋直樹を放出して、課題だったストッパーに江夏豊を獲得。後期優勝を果たすと共にプレーオフで前期優勝のオリオンズを三勝一敗一分けで破り、ファイターズになってからは初の優勝を記録した(日本シリーズはジャイアンツに二勝四敗で敗れる)。

大沢親分は1983年まで監督を続け、フロント入りし、投手コーチだった植村義信コーチに監督の座を禅譲。在任中の1978年から1983年までの六年連続Aクラスは旧フライヤーズ時代も含めて球団最長記録であり、四年間で三回優勝している近年の北海道日本ハムファイターズでも今季紙一重でAクラス入りを逃したように四年連続が最長。

フロント入りした大沢親分は翌年、植村後任監督の極度の不振、休養に伴い監督に復帰したほか、1993年にも三度監督の座に復帰。当時最強だったライオンズに最後まで食い下がり優勝争いで検討するが、翌1994年には一転して最下位。最終戦の試合後のファンへの挨拶でマウンドに土下座して謝ったのはあまりにも有名。

その後はフリーの野球評論家として活躍する一方、サントリービールのモルツのCMで架空の球団「モルツ球団」の監督に起用され、CM終了後も年一回のドリームマッチが、多数のOBの参加の下、東京ドームで開催される他、日本プロ野球OBクラブの初代の理事長に就任し、OBによるリーグ、プロ野球マスターズリーグの立ち上げに尽力する。そして冒頭から書いているTBSテレビ系「サンデーモーニング」の看板コーナー「週刊御意見番」での名調子。

個人的な親分との思い出は、大沢親分が監督の座を退いてファイターズ球団の常務として球団の強化に尽力していた頃、神宮球場の東都大学リーグの試合を観戦している親分の姿を見かけた。大学生の有力選手の視察だったのだが、多くのスカウトらのようにネット裏には陣取らず、何故か一塁側の内野席にいた。熱心にメモを取っていたのでお目当ての選手の視察だったようだが、イニングの合間に思い切って声をかけさせていただき、サインをもらったり話をさせてもらった。

「俺は長年、ベンチから野球を観てきたからな。ネット裏に座るより、ここの方が選手をよく見えるような気がしてな」

「しかし客が少ねえな。いい選手はいるんだから、学生さんがいっぱい応援しなきゃダメだな」

あの独特のべらんめえ調は今も耳に残っている。

「サンデーモーニング」の「週刊御意見番」で以前は共演していた江川紹子ジャーナリストは今日、訃報を聞いて下記のツイートを残している。

大沢さんの「喝!」は、相手への激励が込められた温かいものでした。誰かが不当な非難をされていると、すっと話題を変えたりする配慮をされたりして、スポーツや選手たちへの愛情を感じました。残念でたまらない。ひたすらご冥福をお祈りします。合掌

江川紹子の言う「誰か」とはややもすると思い込みが強く、好き嫌いがはっきりする張本勲を指しているであろう事は明白だが、その歯止めをかける役としても大沢親分は必要不可欠な存在だったことを考えると、今後のこのコーナーのことも心配になってくる。

余談だが今週の日曜日に、江川氏に大沢親分が二週続けて休んでいることをリツイートしたのは @haisenshori という人物だ。

大沢親分がファイターズの監督在任期間に付けていた背番号86は親会社の「ハム」に因んで付けられたのだが、後にも先にもファイターズでは大沢親分以外付けた者がいない。一説によると、いずれミスターファイターズ、田中幸雄がファイターズの監督に就任する暁には親分直々に「背番号86」を継承するという夢があったようだが、それもままならなくなった。実質的な長期欠番でもあるので、東京時代の唯一の優勝監督の労に報いるためにも、大社義規初代オーナーの背番号100に次ぐ永久欠番として欲しい。特にパ・リーグでは鈴木啓示の永久欠番が解除されてしまって元選手の永久欠番がないという事態になっているので実現して欲しいものだ。

このことは切に希望する。合掌。

 

 

 

 

P.S.

10月9日追記

ファイターズスタジアムに献花に行ってきました。

Dsc_0005 あらためてご冥福をお祈りいたします。

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