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2009年2月 2日 (月)

広岡達朗監督率いるスワローズが初優勝した年、ジャイアンツはどこか歯車が狂っていた…。-【回想】敗戦処理。生観戦録-第5回 1978年(昭和53年)編

これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が48カ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 一本でいくことにします。1974(昭和49)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。

【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第5回 1978(昭和53)

1978年の日本プロ野球。前回の当コーナーで触れた1977年は王貞治による米大リーグ、ハンク・アーロンの持つ通算本塁打記録、755本への挑戦に世間の耳目が集まる中、セ・リーグの優勝争いはジャイアンツの独走に終わった。日本シリーズではブレーブスの前に一勝四敗と屈したものの長嶋監督になって三年間で二回のリーグ優勝ということでジャイアンツに再び黄金時代が来るのではないかという予感すらあった時期だった。しかし、そんななかで着々と力をつけているチームがあった。

 

この年、2位に輝いた広岡達朗監督率いるスワローズだ。その前年の1976年の途中から監督に就任した広岡達朗監督が万年Bクラスのチームを変えつつあった。1975年にカープが球団創立以来初めて優勝を記録したことでセ・リーグではこのスワローズだけが優勝未経験のチームになっていたが、当時の印象としては球団にその危機感は希薄だった感じだ。何しろ当時の松園克己オーナーからして、ヤクルト製品の愛飲者にジャイアンツファンが多いという理由から「(ウチがジャイアンツを倒して優勝するよりも)ジャイアンツが優勝して、ウチが2位になるのがイチバン」という発想だったほどだから。

しかし広岡監督は、V9ジャイアンツの名捕手、森昌彦をヘッドコーチに据えて、より自分の野球を推進していく。ついにこの年、ジャイアンツとのマッチレースを制してスワローズが球団創立以来初の優勝を飾るのだが、最終的に3ゲーム差しかつかなかった。26試合あった直接対決はさらに凄まじく、スワローズの10勝9敗7分けだった。一勝差ということよりも引き分けが7あったことに壮絶さがうかがえる。このカードが熱戦の末に引き分けに終わると、マスコミはよく「勝てない巨人、負けないヤクルト」という表現を用いた。

ジャイアンツが前年まで二連覇しているチームで、スワローズは新興勢力。しかしスワローズの方がどこか理詰めの野球をやっているように感じさせた。週刊誌で「長嶋茂雄はバカか天才か?」などという特集が組まれるなど、長嶋野球に関する潜在的な疑問が顕在化し始めた時期でもあった。長嶋監督は当時「私は天才でなければバカでもない。ただ勝つための野球をしているだけだ」と反論していた。敗戦処理。が印象に残っているのは敵将、広岡監督が何度か口にしていたこのセリフだ。

「今の巨人は巨人ではない。巨人ではないチームにウチは負けない」

約四十年にわたって球界をリードしてきたジャイアンツに対し、万年Bクラスの球団がコンプレックスを持っていても不思議ではない。広岡監督はナインの目を覚めさせる意図もあって上のように吹聴していたのではないかと思われる。そして「ジャイアンツが勝つのが当たり前」と当時思っていた敗戦処理。にとっても目から鱗のフレーズであった。

この年の生観戦数はそう多くなかったが、最も印象に残っているのは6月18日に行われた後楽園球場でのジャイアンツ対スワローズ戦。ジャイアンツはこの時3位で、2位のホエールズとともに2ゲーム差で首位スワローズを追っていた。

スワローズ

()若松勉

()角富士夫

()ヒルトン

()マニエル

()大杉勝男

()杉浦亨

()大矢明彦

()永尾泰憲

()会田照夫

ジャイアンツ

()柴田勲

()土井正三

()柳田真宏

()王貞治

()シピン

()山本功児

()河埜和正

()福島知春

()堀内恒夫

この試合、ジャイアンツ打線はスワローズ先発の会田照夫(現役のジャイアンツの会田有志のお父さん。父子揃ってアンダースロー)の立ち上がりを攻めて初回に一番の柴田勲から怒濤の5連続安打でわずか17球でKO。4点を奪った。三回裏にも山本功児のソロ本塁打で1点を加え、5対0と試合の主導権を握った

…はずだった。

しかし五回表に先発の堀内恒夫が若松勉に3ラン本塁打を浴びて5対3とされると、この回限りで堀内を降板させるなど防戦一方に回る。打線はスワローズの継投の前に追加点を奪えず、二番手の新浦寿夫も六回表に大杉勝男にソロ本塁打を浴び1点差に。八回からは小林繁を投入するが最終回に船田和英、伊勢孝夫の連打で同点とされる。「伊勢大明神」と呼ばれた勝負師の面目躍如の一打だった。ジャイアンツとしては堀内、新浦、小林と当時の先発三本柱を一試合に注ぎ込んで5点のリードを守れない最悪の展開となった。この後、この年のセ・リーグ新人王に輝く角三男を注ぎ込み、同点止まりで延長戦に。時間制限で最後の攻撃となった十回裏、ジャイアンツは一死一、二塁から代打の原田治明がセンター返しの痛打を放つがセンターライナーとなり、一か八かスタートを切った二塁走者の松本匡史が帰塁出来ず併殺となって試合終了となった。

1978年6月18日・後楽園】

S 000 031 001 0 =5

G 401 000 000 0 =5

S)会田、梶間、小林、井原、倉田-大矢

G)堀内、新浦、小林、角-福島、笠間

本塁打)山本功2号(梶間・3回)、若松7号3ラン(堀内・5回)、大杉11号(新浦・6回)

5点のリードを三本柱総動員でも守れない。「勝てない巨人、負けないヤクルト」を象徴するような試合であった。川上哲治監督との確執で選手生活に終止符を打たなければならなかった広岡監督と、長嶋と同じ年度に現役引退し、長嶋巨人のコーチングスタッフ入りを拒んだ森のタッグにより、万年Bクラスのチームがそのジャイアンツとのマッチレースを制して優勝にたどり着く軌跡は、もはやジャイアンツの黄金時代が再開するのではなく、実力が伯仲した各球団による群雄割拠の時代の到来を意味するということに当時の敗戦処理。が気付く由はなかった。今日以上に「巨人至上主義」が幅をきかせていた時代に親会社の体質という壁とも戦ってリーグを制した広岡監督の過程は海老沢泰久氏の「監督」(文春文庫)を読むと若い世代のファンの方でも理解して頂けると思う(広岡監督本人は同書を読んで「現実のオーナーやフロントはこんなに理解がなかった」と語ったそうだが。)

そしてドラフトで「空白の一日」-江川問題を起こすのがこのシーズンの直後。ジャイアンツにとってある意味節目の年だったのかもしれない。

【参考文献】

朝日新聞縮刷版1978年6月(朝日新聞社刊)

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