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2008年11月 2日 (日)

魔法の絨毯!? 日本初の人工芝球場での公式戦-【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第3回 1976年(昭和51年)編

01_3blogで毎月2日に掲載している 敗戦処理。が生観戦した野球場 がもうすぐネタ切れになるので、隔月掲載として、その間、敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year をはさむことにします。1974(昭和49)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。

【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第3回 1976(昭和51)

1976年は日本のプロ野球のスタジアムに初めて人工芝が登場した年であった。「プロ野球のメッカ」と呼ばれる後楽園球場が人工芝を採用したのだった。敗戦処理。はその日本初の人工芝球場での初めての公式戦を生観戦したのであった。そのカードは4月3日に行われた1976年のパ・リーグ開幕戦。ファイターズ対オリオンズ戦だった。

(冒頭の写真は当時毎年敗戦処理。が球場で購入していた選手名鑑「ファン手帳」-観戦中に打球で事故に遭うと保険が下りるというありがたい名鑑だが、この年は人工芝に新装なった後楽園球場の内観を表紙にしていた)

当時、後楽園球場を本拠地にしていたのはジャイアンツとファイターズ。ジャイアンツは前年、長嶋茂雄監督の一年目で球団史上初の最下位に転落し、開幕権を得ることが出来なかった。一方のファイターズも前年、二シーズン制のパ・リーグにおいて前期は四位、後期は五位に終わり、通算では最下位に終わった。だが厳密に前年の上位三球団に開幕権を与えるセと異なり、当時のパは分散開催などを考慮していた。福岡、平和台球場を本拠地にしていたライオンズは前年順位に関わらず開幕権を与えられることが多かったし、この年、ファイターズも前年最下位ながら開幕権を獲得した。この年のパの開幕戦は前年、前期優勝し、プレーオフも勝ち上がったブレーブスと、福岡のライオンズとファイターズが開幕権を得た。両リーグ同時開幕となった4月3日。日本初の人工芝球場での公式戦第一号は後楽園でのファイターズ対オリオンズ戦となった。

正直、この時期には敗戦処理。はまだファイターズのファンではなかった。記憶ではこの試合をきっかけにファンになったようだ。ファイターズは新監督、大沢啓二監督の初試合。オリオンズは金田正一監督が選手以上に目立っていた頃だ。まずは先発メンバーを見てみよう。

オリオンズ

()弘田澄男

()ラフィーバー

()有藤道世

()ブリッグス

()江藤慎一

()得津高宏

()山崎裕之

()村上公康

()成田文男

()村田兆治

ファイターズ

()服部敏和

()内田順三

()小田義人

()ウイリアムス

()永渕洋三

()加藤俊夫

()岡持和彦

()後藤和昭

()中原全敏

()高橋直樹

1976年4月3日・後楽園】

O 000 003 000 =3

F 110 004 20× =8

O)●村田、倉持明-村上、土肥健二

S)高橋直、○野村収-加藤

本塁打)ブリッグス1号2ラン(高橋直・6回)、小田1号2ラン(倉持・7回)

オリオンズのスタメンを見ると、開幕戦だというのに偵察要員を使っているのがわかる。「九番・遊撃」の成田は右のローテーション投手。当時は予告先発制度がなかったとはいえ、「エース」が先発する開幕戦での当て馬起用は珍しいのではないか。右のアンダースローの高橋直樹が先発とわかると、右投げ左打ちの飯塚佳寛が一回裏の守備からショートに入った。

ちなみに高橋直樹は当時のファイターズで間違いなく「エース」と呼ばれる存在であったが金田監督が迷ったとしたらこの年、ジャイアンツからトレードで移籍してきたV9時代の左のエース、高橋一三の存在を意識したのかもしれない。このオフにファイターズは既にパ・リーグで首位打者を七回獲得していた張本勲を放出し、ジャイアンツから高橋一三と内野手の富田勝を獲得した。東映フライヤーズから日拓ホームフライヤーズを経て日本ハムファイターズとなって三年目。旧東映色を消そうとしていたのか大杉勝男、白仁天、大下剛史ら、いかにもその色の濃い選手を順次トレードして血の入れ替えをしていた時期だった。

* とすると、大沢新監督が張本放出を画策したように思われかねないが、そうではなくフロント主導だったようだ。長嶋茂雄の引退でON砲がO一人になったジャイアンツが強力打線復活のために王貞治と並ぶ協力打者を獲得する必要に迫られていたのである。前年には現役大リーガー、デーブ・ジョンソンを獲得したものの今ひとつだったため、王と同年齢の強烈な個性の持ち主に白羽の矢を立てたのだろう。監督主導でなくフロント主導のトレードだからこそ大沢親分と張本は毎週日曜の朝に仲良く「喝!」だの「あっぱれ!」だのと吠えているのである。

今では常打ち球場は人工芝が当たり前となっているが、初めての人工芝はインパクトが強かった。実はこの開幕戦のチケットを買いに行った時、レフト側のブルペンの改修工事が行われており、球場の外からレフト側のブルペンが丸見えになっていた。工事したばかりの人工芝を少しだけむしってポケットに入れたら係員の人から「あまり沢山持っていくなよ」と言われた<苦笑>。ワンバウンドして内野で高く弾む打球は野手が処理しきれず「人工芝ヒット」と呼ばれたのも象徴的だった。そして雨にも強く、少々の雨では試合が中止にならない利点もあった。だがとかく初めてとは難しいものでこの試合でもホームでないオリオンズに4個の失策が記録された。

実はこの年の開幕前、オープン戦の時期に人工芝化の記念と、慣れてもらうために後楽園球場を舞台とするトーナメント大会が開かれたが、セ・パ両リーグで使用されるにもかかわらずセ・リーグ六球団だけの大会でパ・リーグは加わらなかった。余談だが後楽園球場は日本初のドーム球場、東京ドーム誕生でその役目を終えるのだが東京ドーム誕生の時にはオープン戦の時期に十二球団参加のトーナメント大会を行っている。ファイターズがせこいのか、他の球団が無頓着だったのか知るよしもないが。

ちなみにセ・リーグ六球団によるトーナメント大会を制したのはジャイアンツでなくドラゴンズであったが、この年、ドラゴンズは人工芝の後楽園でのジャイアンツ戦に12敗1分けと一つも勝てなかった。勝負所で守備のミスが絡む試合が少なくなかったと記憶している。

この試合の快勝でファイターズに虜になったのかもしれないが、その後読み始めた漫画「あぶさん」で豪快なキャラクターに描かれていた大沢親分に親しみを持ったのかもしれない。子供にとって漫画の影響は大きいものだ。当時を振り返り、つくづくそう思う。

【参考文献】

朝日新聞縮刷版1976年3月、1976年4月(朝日新聞社刊)

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