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2006年4月

2006年4月30日 (日)

横浜森大輔、背水の中国リハビリへ

2004年に三菱ふそう川崎から自由獲得枠でベイスターズ入りした 森大輔投手がプロ入りして三年間、一軍入りどころか満足に試合で投げられる状態に至らずにもがき苦しんでいることはベイスターズファンを中心に一部のファンの間では有名な話だが、球団はリハビリの一環として5月3日から中国・天津に派遣し、業務提携をしている中国のプロ野球チーム、天津ライオンズの練習施設などでリハビリに挑ませるという。期間は8月31日までの予定。

森は石川県の七尾工業三年時に2000年の夏の県大会1回戦、輪島実業戦で23奪三振のノーヒットノーランを達成し、注目を集める。その後社会人の三菱ふそうに進み、2002年の「ベーブ・ルース杯」でのMVPなどの実績をひっさげて2003年のドラフトの自由獲得枠でベイスターズに入団。この時のドラフトでは東京ガスの内海哲也(ジャイアンツ入り)、東芝の香月良太(旧バファローズ入り→球団合併に伴い現バファローズ入り)とともに「社会人ビッグ3」と騒がれた。

大きな期待を背負ったルーキーイヤーの2004年、森は社会人時代に一時期悩まされた左肘が気になり、投球恐怖症に陥った。社会人出身の自由獲得枠入団となれば球団は即戦力と期待するが、まずはファーム調整。初めてイースタンの公式戦に登板した同年5月30日には1回2/3で打者14人に7四球と1死球。再び調整生活に逆戻り。そして7月27日のスポーツ報知にファンにとっては衝撃の近況が報じられる。

[ファーム情報]横浜・森大輔は投げられない投手

今年そろってプロ入りした内海(巨人)、香月(近鉄)とともに「社会人ビッグ3」といわれた左腕が、ファームで、もがき苦しんでいる。自由獲得枠で横浜入りした横浜のルーキー・森大輔(21)は「結局、病気なんです。最初は認めたくなかったけど、強がってもしようがない」と寂しそうに笑った。

森の言う「病気」とは、投手でありながら、精神的な問題で球が投げられない、ということだ。社会人3年目の2003年春ごろから症状は表れていた。制球を意識するあまり、腕に力が入りすぎて、ひじ痛が襲い、半年間投げられない時期もあった。

今は痛みはないが、ブルペンでは捕手は立ったまま。それでも、球はミットの届かないところにいく。ファームでの登板は、5月30日の西武戦のわずか1試合。それも1回2/3で打者14人に7四球1死球。「ストライクが入らない状態でした」

腕の力の出し入れの感覚をつかむために、チームメートに冷やかされながらも、合宿所近くの海に向かって釣り竿を振る練習も取り入れた。「いつまで(思うように投げられない状態が)続くんだろうって思うこともあるけど、投手をやめたいと思ったことはないんです」

もう一度、輝きを取り戻すまで、MAX149キロの剛腕は腕を振り続ける。
(2004.07.27 スポーツ報知 高橋俊博記者)

ベイスターズファンでない敗戦処理。も驚いた。アマチュア時代の高い実績を評価されてプロ入りした投手が投球恐怖症になるなんて。しかし、プロの世界で森に同情する気などさらさら無い。精神的に不向きな選手を獲得したのならスカウティングの問題だから球団にも責任の一端はあると思うからだ。

結局森はこの年の11月に左肘を手術。本人が語っていたような精神的な問題だけでなかったようだが、この時に一部マスコミが社会人時代の故障を隠蔽していたとか、球団の事前調査が甘すぎるとか批判記事を書いていたが、森はこの手術により昨年も一年間、リハビリに専念した形になりイースタン・リーグでも登板無し。今年ようやく4月26日のイースタン・対スワローズ戦で0対12とリードされた九回表に登板。1イニングを1奪三振、1与四球の無失点に抑え、ようやくプロ野球選手としての第一歩を踏み出した感じだった。

とりあえずたったの一度とはいえ、試合として全く責任のない様な場面を選び?イースタンでのマウンドを踏ませた上で異なる環境でリハビリに努めさせる。球団も自由獲得枠での選手ということで、メンツがあるのだろう。一本立ちに必死なのだろう。

余談だがベイスターズはここ数年、ドラフトの自由獲得枠で狙った目玉の投手には泣かされ続けている。2002年のドラフトの自由獲得枠での獲得が決まりかけていた立教大学の多田野数人はいわゆるホモビデオに出演していたことが発覚して獲得を見送ったら今や大リーガー。代わりに同枠で獲得した法政大学の土居は登録名を龍太郎と代えてもさっぱりでつい先日トレード。2003年の自由獲得枠の森はこんな状態。2004年には自由獲得枠での獲得を狙った明治大学の一場靖弘に対していわゆる栄養費が発覚して指名を断念。代わりに獲得した日本大学の那須野巧もまだ結果が出ていない。ホモビデオに出演するとどうしてプロ野球のドラフトにかからなくなるのか理解に苦しむが、こうまでドラフト戦略が裏目続きになると、これは多田野のたたりか、全国の同性愛者の怨念のどちらかだと敗戦処理。は勝手に思っているのですが<苦笑>、2005年の大学生・社会人ドラフトでそれまでの自由獲得枠に相当する希望枠で入団した今年のルーキー高宮和也が4月20日の対カープ戦にプロ入り初先発で初勝利をマーク。何とか悪い流れから脱却して欲しいところだ。

ベイスターズは森に入団時に契約金として1億円、年俸も新人選手としては最高水準の1,500万円を支払い、二年目には年俸ダウンの上限25%ダウンで1,125万円を支払い、三年目の今年は24%ダウンで850万円となったが三年間で年俸、契約金で合計1億3,475万円もの金額をかけている。(金額はいずれも推定)ここまでの投資を無駄にしないために打った手が今回の国外でのリハビリなのだろうが、一年先輩の龍太郎がシーズンに入ってからトレードされたことを考えると、今回の措置は球団の最後通告なのかもしれない。これでだめなら、もともと欠陥を抱えていた選手ということで球団は社会人時代の所属先に対し、リコールを要求するのではないか。なにしろ森の社会人時代の所属は三菱ふそうだから。

2006年4月25日 (火)

濱中治はもっと早く復活出来たのではないか?-濱中復活を遅らせた二人

開幕から強いのか弱いのか今一つはっきりしないタイガースにあって、気を吐いているのが濱中治。ここ数年ずっと悩まされていた右肩の不安からほぼ解放され、「六番・右翼」に座り好打を連発している。

しかしこの濱中の復活。うまくすればもっと早く実現出来たのではないか?

濱中のアクシデントは2003年にまでさかのぼる。5月20日のカープ戦で走者として牽制で帰塁した際に右肩を負傷。「右肩捻挫」と診断された。肩の負傷ということでその後代打で試合に出ていたが6月13日のジャイアンツ戦でライトの守備につきスローイングした際にまた右肩を負傷。今度は「右肩脱臼、右肩関節唇損傷」と診断され、残りのシーズンを棒に振った。

ジャイアンツ戦でのスタメン復帰(ライト)はまだ肩が完治しない状態での見切り発車だった。星野監督ら首脳陣の意向で、打球が行ったらセンターの赤星憲広やセカンドの今岡誠をすぐそばまで行かせるからスローイングは無理をしなくていいという配慮をしての起用だったが、地元甲子園での伝統の一戦で無理をしなくていい等というのは無理な相談で、一塁線を抜かれた打球の処理で返球の際にやってしまったのである。

これは敗戦処理。に言わせれば人災であった。監督公認で「無理をしなくてもいい」と言われていても、あの超満員の伝統の一戦でそういうプレイは出来ないだろう。星野監督以下コーチ陣のミス、過失である。

7月に右肩の修復手術を受けた濱中は日本シリーズでこそDHで出場し、活躍の場があったが翌年は代打要員としてスタート。しかし5月に肩の張りを訴えて登録抹消。「右上腕二頭筋長頭の炎症」と診断され、以後一軍出場無し。7月には右肩の関節内クリーニングと腱板の縫合手術を受けた。昨年は交流戦のビジターゲームでDHでスタメン出場の機会が増え、7月には二軍戦でライトを守る実戦テストをこなし、一軍のジャイアンツ戦でも試合途中からライトの守備についた。そして8月4日のベイスターズ戦(横浜)ではライトでのスタメン出場を果たした。岡田監督は濱中の起用にはかなり慎重な姿勢だった。ようやく今季、開幕三連戦こそスタメン落ちしていたが、その後ライトに定着。打棒爆発はご存じの通りである。

悔やまれるのは星野監督による焦った復帰である。あれがなければこんなに遠回りしなかっただろう。

それと昨年の後半からテスト的にライトの守備位置についた濱中だったが、肩に不安があるのならライトに入れるよりレフトに入れるのが定石。肩に不安のある選手がライトにいると相手走者は一塁からライト前の安打で容易に三塁まで行けるが、レフトを守らせておけばレフトから一塁へ遠投するケースはほとんど無く、また走者二塁の場面でもレフト前の打球だと無死または一死だと二塁走者は安打になるのを確認してからスタートを切るので三塁に止まるケースが殆どというようにレフトの方がライトより明らかに肩に不安のある選手を守らせるには好都合なのだ。

ところがタイガースのレフトには連続フルイニング出場を続ける金本知憲がいる。この金本、実は守備範囲が広くなく、肩もそれほど強くない。おそらくは記録がかかっていなければ(年齢的な要素も絡み)守備要員との交代が頻繁になされてもおかしくない選手だ。金本をライトに回して濱中をレフトに回すという発想があればもっと早く濱中の打棒を活かす方法もあったのだろうが岡田監督はそれをしなかった。ヘタをすれば外野に二つ穴が出来ることになるからだろう。

昨季37歳にして自己最高の打撃成績を残した金本だが、「三番・金本、四番・濱中」の打線が実現した時に現状での最強打線が組めると敗戦処理。は思っている。ジャイアンツを応援している敗戦処理。にとっては厄介なことだが、当面、今岡と濱中の打順が入れ替わる程度のことはあっても三番・金本、四番濱中という打順は実現しないだろう。ジャイアンツはそれまでに貯金を稼いでおいた方が無難だろう。

敗戦処理。の観る限りでは濱中のスタメン復活を遅らせたのは上記の二人の存在が絡んでいると思う。二人ともタイガースファンやマスコミにとってはおいそれと批判出来ないカリスマ的存在である。後者は本人の問題ではないが前者には過去にも酷使によって若い投手の芽を潰してきた疑いがある。濱中復活を素直に喜ぶだけでなく、(他の選手を含め)再発防止の意味でも何故ここまで時間がかかったかをきちんと検証すべきではないか。

2006年4月23日 (日)

清原和博はなぜ死球が多いのか?

00 20日のファイターズ対バファローズ戦でダルビッシュ有から死球を受けて途中交代した清原和博は骨折も懸念されましたが診断の結果、打撲で全治三週間だったそうです。清原は死球の日本記録保持者であるくらい死球が多いのですが、選手生命をかけて臨んだシーズンに受けた通算196個目の死球に相当の怒りを覚えているようです。

20日の死球で、自身が持つ最多死球のプロ野球記録を196に更新。清原は1989年に死球に激高して相手投手に暴行したことを振り返り「あの時は一時的な感情でバットを投げつけてしまった。すごく反省した」と言う。しかし今回の死球については「5年、10年と野球をできるわけではない。次からは命をかけてマウンドに走り相手を倒したい。周囲の非難よりも大切なものを守りたい」と怒りをあらわにした。

(スポーツ報知WEB版-2006年04月21日より引用。http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20060421-OHT1T00318.htm

大切なものとは「家族の生活」だそうですが、何とも物騒な発言ですね。来年には40歳になる人の発言とは思えません。その後多少冷静さを取り戻した清原は新たにこう語ったそうです。

ここ2、3日、やはり心の中で思うことが多かった。久しぶりの東京ドームで、ああいう形で去ってから球場に立ったわけですが。なんていうか、またくしくも(2004年の阪神戦と)同じ東京ドームで骨折か…と。新たに再スタートを切ったところでね。

 昨日(20日)は、うちのチビを久々に東京ドームに呼んで、その1打席目でデッドボール。チビが涙いっぱいこらえながら、病院に見送ってくれて…。もうこれ以上…。(死球をぶつけた投手へ向かうことは)17年我慢してきましたし、大切なものを守らなくてはいけない、と昨日は強く感じました。その半面、(心では)半分以上は骨折と思っていた。

 これから、故意にしろ故意じゃないにしろ、僕は守るべきものを命を懸けて守りたいと思います。もし、そういうことがあれば、命を懸けてマウンドへ走っていき、そいつを倒したいと思います。周囲から非難、制裁を受けても。もう5年、10年も野球をできるわけじゃないですから。死球を受けたすぐ後に説明するのも格好悪いと思って、あえて今、こういう形で言わせてもらいました。

 野球ですから、決してインコースに投げるな、と言っているわけではありません。ただ、大切なものを守るために、命を懸けて突っ走っていきたい。今、世界中で戦争が起きています。相手は決して憎くて殺すんじゃない。みんな、大切なものを守るために戦っている。

 昨日は悔しくて眠れなかった。チビの涙ためる姿を見てオレはもう…。やられっぱなしで、2、3か月けがで入院するぐらいやったら、こっちから行って…守るべきものを守りたいよね。

(スポーツ報知WEB版-2006年04月22日より引用。http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20060422-OHT1T00056.htm

来年には40歳になる人の発言とは思えません。「四十にして惑わず」という故事がありますが、清原には当てはまらないのでしょうか。

そもそも、なぜ清原には死球が多いのでしょうか?

「ホームランバッターの宿命として、相手投手から内角ぎりぎりに攻められることが多く、結果として死球になってしまうことが多い」という意見を聞きます。たしかにそれもあると思いますが、それだけでしょうか?多くの野球ファンが知っている通り、清原は打者として内角球に弱いという弱点を持っており、それを克服できないからいつまでたっても相手投手に内角攻めをされているということの方が本当の原因だと敗戦処理。は推測しています。

それが証拠にジャイアンツ時代の清原はとにかくよくぶつけられましたが、同じ時期松井秀喜が清原ほどのえげつない内角攻めをされたという印象がありません。内角攻めはホームランバッター対策というより、清原対策なのでしょう。

松井にも容赦なくえげつない球が投じられていた時期がありました。1998年にはセ・リーグの死球王になっています。(といっても年間で8個ですが。)この年に松井は初めて本塁打王に輝いています。入団時から将来のホームランキングを予感させていた松井秀喜がセ・リーグで本塁打王争いに絡むようになって三年目で念願の初タイトル。その打棒がいよいよ開花したシーズンだったわけですが、この年を境にさらに相手投手からえげつないせめかたをされたかというとさにあらず、以後死球の数は減ります。これは松井が内角攻めを克服したということと、セ・リーグのライバルチームの投手達が松井を一人前の打者として一目置いたということだったのではないでしょうか。

若いホームランバッターや、あるいは安打製造器型の選手にも当てはまるのでしょうが、ブレークしていく過程で執拗な内角攻めを受けるという例は確かにあるようです。「出る杭は打たれる」、「鉄は熱いうちに打て」といったところでしょうか。しかしそれを克服した選手に対しては、いつしかえげつない攻め方も影を潜めるようになるものです。善し悪しはあるでしょうが、一種の儀式なのかもしれません。ところが清原にはいっこうに内角攻めが減りません。

清原は昨年までで二十年間のプロ生活をしていますがこれを5年ごとに区切って、死球を受ける割合を検証してみたいと思います。

1986年~1990年 2675打席 67死球  39.9打席に1死球
1991年~1995年 2705打席 33死球  82.0打席に1死球
1996年~2000年 2158打席 44死球  49.0打席に1死球
2001年~2005年 1624打席 51死球  31.8打席に1死球

1986年~2005年 9162打席 195死球  47.0打席に1死球

年数を経て死球が減るのではなく、むしろ増えています。いったい何なのでしょうか。誤解を恐れずにいえば、ライバルチームの投手陣の間には、清原に対しては「ぶつけても仕方ないから徹底して内角を攻めよう」という清原対策マニュアルがあるのでしょう。ぶつけてしまっては出塁させてしまいますが、打ち取るためには、特にスタジアムの雰囲気をがらりと変えるホームランを防ぐには「ぶつける覚悟での内角攻め」が有効なのでしょう。だとしたら清原はプロ生活20年にして未だにライバルチームから一目置かれていない存在に過ぎないということになってしまいますが。

たとえば先日連続フルイニング出場記録の大リーグ記録を抜いた金本知憲は、清原同様にチームの四番を張る主力選手ですが、清原に比べると圧倒的に死球が少ないです。だからこそ連続出場の記録を達成できるのだとも言えますが、あそこまでいくと、「金本にやたらに死球をぶつけるわけにはいかない」という暗黙のコンセンサスがライバルチームの投手陣の間にも、否、大げさにいえば日本プロ野球界全体に確立されているのでしょう。参考までに金本の近年の死球数を調べてみました。

金本知憲
2001年 615打席 9死球   68.3打席に1死球
2002年 604打席 2死球  302.0打席に1死球
2003年 632打席 5死球  126.4打席に1死球
2004年 613打席 5死球  122.6打席に1死球
2005年 662打席 3死球  220.7打席に1死球
5年間 3126打席 24死球  130.3打席に1死球

金本が内角球をどう対処しているかは定かではありませんが、この差を見る限り、「清原にはぶつけても仕方ないが、金本には原則的にはぶつけていけない」というコンセンサスが形成されていると言ったら言い過ぎでしょうか。

今回はぶつけた側のファイターズの投手コーチが、二年前のジャイアンツ時代に長期離脱につながる死球をぶつけたタイガースの投手コーチだった佐藤義則だったことと、その佐藤コーチが「ハードラックだった」などと他人事のような発言をしていることから清原の怒りに拍車がかかっているとの見方もあり、暴力宣言は別にしても清原を擁護する報道が目立ちますが、根底にあるのは清原が何年たっても同じ弱点を克服できずにいるということだと敗戦処理。はみなしています。

「番長」というニックネームに、威圧感を示そうとするスキンヘッドにピアスという武装行為で苦手の内角に投げさせない工夫を施してきた清原ですが、それでも通用しないと見るや、実力行使に及ぶというニュアンスを流布する手段に出たのかもしれませんが、プロ20年を超える選手がみっともない暴力行為に走るような愚挙には及ばないよう、本人に自覚がないのでしたら、中村勝広監督以下首脳陣がきちんと指導して下さい。

清原和博にとっても「清原和博」を演じ続けるのが大変だということはわかりますが。

2006年4月21日 (金)

SHINJO引退表明の日にデビューした男

SHINJOが引退表明した18日に一軍デビューを果たした男がいる。

済美高からファイターズ入りして二年目の鵜久森淳志である。済美高時代の甲子園での長距離砲としての暴れっぷりは鮮烈だった。2004年の春の選抜での優勝、そして夏の大会での本塁打連発は、甲子園を沸かせた右の大砲という意味では清原和博以来の逸材と感じさせるスケールの大きさだった。昨年は同期・同年齢のダルビッシュ有が早々と一軍で戦力となったのを尻目にファームの試合に出続けて専ら場数を踏んだ感じだった。敗戦処理。も何度か鎌ヶ谷などで鵜久森の打撃を生で観たが、まだプロの投手の攻めに完全に対応できているという感じではなく、好球が来れば長距離砲の片鱗を見せてくれるという、いかにも未完の大器といった印象を持っている。

16日のホークス対ファイターズ戦でフリオ・ズレータから暴行を受けた金村曉が登録抹消となり、代替えの先発投手を登録するまでの期間限定で、鵜久森の一軍デビューが決まった。鵜久森はSHINJOの満塁本塁打でファイターズの勝利が濃厚となった後の八回裏、代打で登場し、三球三振に倒れた。敗戦処理。から観ても一軍入りは時期尚早だから、三振という結果は致し方ないと思う。新人研修のようなもの。相手チームの清原和博や中村紀洋を観て何かを学ぶもよし、チームの先輩、小笠原道大やそれこそSHINJOから学ぶものもあるだろう。早ければ明日(21)にも二軍落ちするのかもしれないが、ベンチの中からでも学べることはあるのだろう。

ファームの試合で鵜久森を観ていて時折歯痒く思うことがある。それは相手投手に簡単に追い込まれ、つり球や難しい球に手を出して相手の術中にはまるケースが多い点だ。好球必打といった感じに乏しいのが残念だ。もっともファームでも四番を任され、チームの浮沈の鍵を握る存在になっているのでボールをじっくり見ていくよう心がけているのかもしれないが。

一方で魅力的な点は、三打席連続三振でも、ここぞの場面で長打を放ったり渋く内野の間を抜くタイムリーを放ったりして何とか形にしてしまう点。このへんは大器の片鱗を感じさせる。またホームランも、右に左に真ん中にどの角度へでも遠くにとばせるのが魅力で、特に昨年のイースタン最終戦で放った二発の本塁打-一本目がレフトオーバーで二本目がライトオーバー-と打ち分けたのは圧巻だった。

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昨年のイースタン最終戦で2本の本塁打を放った鵜久森。左が1本目でレフトオーバー。右が2本目でライトオーバー。

先のWBC日本代表チームのメンバー構成を観てもわかるように、日本人の右の大砲は意外と少ないのである。多村仁が三番に抜擢されてアジアラウンドから本塁打を連発したから良かったが、多村の活躍がなければ左打者ばかりが並ぶアンバランスな打順を組まざるを得なかったかもしれないほどであった。

SHINJOが引退してチームを去ったら、ファイターズ球団としては新たなスターが必要になる。あのエンターティナーぶりの代役はそう簡単には現れないが、野球選手としてスター生のある選手を育てるとなれば、ダルビッシュや鵜久森に期待がかかろう。さらに鎌ヶ谷には陽仲壽もいる。

                                                                           ここから先は敗戦処理。の推測だが、ヒルマン監督はおそらく今年、時機を見て鵜久森に一軍テストを施す計画だったのだろう。それは昨年のダルビッシュを当初は札幌ドームでしか登板させなかったのと同様に札幌ドームでの三連戦とか六連戦を選んで実施する計画だったのであろうが金村の不慮のアクシデントで急遽計画を前倒し。札幌ドームではないけれど東京ドームだから、まあいいや。(移動の交通費も浮くし。)

おそらくは今後、ダルビッシュと鵜久森を前面に出した売り出し計画を球団はどんどん試みることだろう。

ところで敗戦処理。は当ブログでも書いたように、今月8日にジャイアンツ球場でジャイアンツ対ファイターズ戦を観戦した。この試合のファイターズのスタメンは次代のファイターズを担うであろう顔ぶれが上位打線に揃う、夢のラインアップであった。

Photo_2一番から川島慶三、工藤隆人、陽、鵜久森。川島はこの後一軍に返り咲いて例の八木智哉が幻のノーヒットノーランを達成した試合で決勝点となる内野ゴロを放った選手だが、ホセ・マシーアスが既に34歳であることを考えると、これから十年余り、陽と二遊間を組んで守りの要となって欲しい期待の星である。そしてセンターには工藤。タイガースの赤星憲広の後輩に当たるJR東日本出身の左打ちの外野手で駿足が売り。入団時から先輩と同じ背番号53を託されているところから球団の期待も判ろうというもの。出来れば近い将来、これと同じ並びを一軍でも観てみたいほどだ。決してそれは夢ではないと思う。

明日(21)のファイターズ対マリーンズ戦の予告先発が橋本義隆と発表された。奇しくもこの夢のラインアップの日の先発投手でこの日勝利投手に輝いたファーム投手陣の成長株№1。橋本は明日一軍登録され、おそらく入れ替わりで鵜久森が二軍落ちであろう。(また交通費が浮く!)敗戦処理。は今日までの対バファローズ三連戦 in 東京ドームを生観戦する予定であったが三日間とも仕事の関係で行けなかった。鵜久森の晴れ舞台を観たかったが、今度の土曜の鎌ヶ谷に何食わぬ顔して四番を打っているような気がする。その時にまた会えるだろう<苦笑>。次に一軍から声がかかる時は実力で呼ばれる時。そのタイミングで東京ドーム(または週末の千葉マリンか所沢)があれば、今度こそ馳せ参じたいものだ。

2006年4月20日 (木)

新庄剛志はSHINJOであることに疲れたのか?

01_2 SHINJOの突然の引退表明には本当に驚きました。「なんで?」「なんで今、引退宣言しなきゃならないの?」というのが第一印象でした。

昨年のSHINJOは、度重なる故障のせいもあって特に打撃が不振。はっきり言って昨年のSHINJOSHINJOじゃありませんでした。それでも二年契約を満了し、どうしてもSHINJOに残って欲しいファイターズ球団は2004年~2005年の推定8000万円から3億円と大幅にアップする条件で契約にこぎ着けた。

SHINJO8000万円は安すぎた。アップは当然。」

ファイターズでの二年間のパフォーマンスを満喫したファンの多くはそう考えているだろう。眼に見える打撃成績以外に話題性、観客動員力などを考え合わせれば、今の日本プロ野球界の年俸の相場と照らし合わせると、たしかに二年間のSHINJOの年俸は安かったのかもしれない。

しかし、これらの話題性、観客動員力などを加味して査定されたSHINJOの評価というものは、文字通りSHINJOの評価であって、SHINJOという登録名で呼ばれる新庄剛志の評価であるということを当の新庄剛志自身が重荷に思っていたのかもしれない。

打って守って走って、野球人としての新庄剛志は特に守と走の部門においては超一級の野球人だ。それこそ引退宣言を聞いてコメントを求められた野村克也監督が語ったように「メジャー級」だ。しかし、球団はもとより我々ファンが求めているのは特に守と走において超一級の野球人新庄剛志ではなく、さらにパフォーマンスを加えたエンターティナーSHINJOなのである。もはや我々ファンの興味は新庄が何打数何安打だったか?ではなく、SHINJOが何をしたか?である。

SHINJOはそれに気付いていたから、SHINJOで居続けることの限界を感じて引退表明をしたのではないか。

SHINJO「自分で捕れると思った打球がワンバウンドしたり、スローイングで刺せなかったり…。いっぱい、いっぱい。まっすぐ1本で狙って詰まったり、振り遅れたり…」と語っていたが、これは新庄剛志としての限界を悟ったようにみせて実はSHINJOとしてこれ以上ファンの求めるパフォーマンスを続けられる自身がなくなったことのカムフラージュなのではないか。だからこそ、エンターティナーとしての最大目標である-札幌ドームを観衆43,000人の超満員にする-を達成したことを節目にすることで自分を納得させたかったのではないか。

今にして思えば、今シーズン前のオフの間、何度かSHINJOが「もうかぶり物はやらない」と言っていたような気がする。「ボロボロになるまでやりたくない」は裏を返せばパフォーマンスが決まるような形でしかパフォーマンスをしないというこだわりとも思える。

引退表明当日、ファイターズ戦をテレビ解説していたファイターズOBの金石昭人氏は「チーム一丸となって闘っていくこの時期に引退表明するのは良くない。ファンや選手、監督を裏切る行為でOBとして寂しい」という旨のことを言っていたようだがファイターズを応援する敗戦処理。としてもほぼ同じ思いだ。

ファイターズ入団を決めた時、球界再編問題の最中でのオールスターゲームでMVPを獲得した時、ともにSHINJOは同じことを言った。

「これからは、パ・リーグです。」

パ・リーグの時代、ファイターズの時代を実現させるためにもSHINJOとしても、新庄剛志としてもまだやり残していることがあるはずだ。残りあと約五ヶ月。それを成し遂げたうえで引退するならして欲しい。

2006年4月18日 (火)

マリーンズはホークス型か、ベイスターズ型か?

昨年の日本一、いやアジア一のマリーンズがおかしい。15日、16日と首位のライオンズに連勝し、息を吹き返したようだが、それでも開幕からの成績は8勝11敗で借金3。下にはイーグルスがいるだけの5位(4月16日現在)。昨年は盆と正月とバレンタインデイがいっぺんに来たような一年間であったが、これからのマリーンズはどうなっていくのだろうか。

昨年のマリーンズは1974年のオリオンズ時代にリーグ優勝、日本一を勝ち取って以来の優勝。実に31年ぶりの快挙だった。近年の日本プロ野球で長く低迷していた球団が久しぶりに日本一になった例というと、1998年に38年ぶりの日本一に輝いたベイスターズと1999年に26年ぶりの日本一、35年ぶりの日本一に輝いたホークスが挙げられる。しかしこの両チーム、その後のシーズンの成績は好対照だ。果たしてマリーンズはどちらの道を歩むのだろうか?

マリーンズの開幕からのつまずきは、先のWBC日本代表に十二球団中最多の8選手を送り込んだことで開幕直前の時期に一体感が欠けたことが原因であると観られている。これはたしかにあるようで、ボビー・バレンタイン監督の公式ブログ、ボビーズ ウェイでも監督自身が不安材料として挙げていた。
http://www.bobbysway.jp/?p=79

WBC参加以後に態度が変わった選手が誰なのか気になるところだが、敗戦処理。としてはそのことよりも、オフの戦力整備に問題があったことの方が大きいのではないかと睨んでいる。

小坂誠の金銭トレード。イ・スンヨプ、マット・フランコ、ヴァル・パスクチ、ダン・セラフィニを自由契約にしてから再契約の交渉に当たらなければならなかった珍妙な契約形態など、このチームのフロントは理解に苦しむ。30本塁打、82打点、.260のイ・スンヨプの抜けた穴をパスクチで埋められると考え、11勝4敗 2.91のセラフィニの抜けた穴を4勝13敗のケビン・バーンで埋めようと考えたのであれば、2005年の好結果に酔いすぎていると思わざるを得ない。

ましてや小坂の放出が巷間報じられているように優勝による主力選手の大幅年俸アップ分をまかなうための策だったとしたら、「優勝したから当分しなくてもいいや。」「こんなに金がかかるのならV2などしなくてもいい。」と考えているのではないかと邪推したくなる。

今頃になってメジャー5年間で85本塁打を放っている大砲を獲得しようとしているらしいが、何故もっと早く動かなかったのか。一説によると外国人選手探しはバレンタイン監督任せだとも言われている。昨年の快進撃でこの球団のフロントの頑張りまでがクローズアップされたが、営業部門や企画部門はまだしも肝心な編成部門には首を傾げざるを得ないというのが敗戦処理。の印象である。

もっとも15日のライオンズ戦で逆転満塁打を放った大松尚逸のように、次世代選手の底上げはそれなりの成果をみせている。

昨年の日本シリーズ終了後のアジアシリーズでマリーンズは最初の二試合で決勝進出を決め、その後の中国選抜戦では主力を休ませて韓国・サムスンとの決勝戦に温存した。中国選抜戦とサムスン戦のスタメンを比較すると、

対中国選抜戦 対サムスン戦
(二)早坂       (遊)西岡
(三)塀内       (三)今江
(一)フランコ     (一)イ
(指)ベニー     (中)サブロー
(中)大松      (左)フランコ
(右)竹原      (右)ベニー
(左)井上      (指)橋本
(捕)辻        (捕)里崎
(遊)渡辺正    (二)塀内

故障で福浦、堀、小坂を欠いていたが、マリーンズにとって対中国選抜戦は外国人以外はイースタン・リーグ並みのメンツであった。しかしそのイースタン・リーグでもマリーンズは昨年は古賀英彦二軍監督の元で日本一に輝いていた。大舞台で実験出来る程度のレベルの選手が育っていることを証明した形になった。

幸いにして今年のパ・リーグは独走態勢に入ろうとしつつあったライオンズをマリーンズが止めたため、5球団が4.5ゲーム差以内にひしめく状態に保てている。WBC後遺症からの回復は例によってボビー・マジックに頼るしかないのかもしれないが、このチームがホークス型(これから先もしばらくは優勝争いの常連になる)に進むかベイスターズ型(優勝の余韻に浸っている間にどんどん下位に低迷)に陥るかはボビー依存症からの良い意味での脱却にあると敗戦処理。は考えている。

マリーンズの明日はどっちだ?

2006年4月16日 (日)

「生」観戦した野球場(6)-多摩一本杉球場

Photo_1 いろいろな野球場で日本のプロ野球を観てきました。その数40以上。だからどうしたと言われればそれまでですが。

このコーナーでは敗戦処理。がプロ野球の試合を観戦した野球場について順に書いていこうと思います。月に1~2球場の割合で書いていこうと思います。また、シーズン中に新たな球場に行ったら加筆していこうと思います。

第6回 多摩一本杉球場 観戦球場ファイル-6-

これまで5回は特定球団の本拠地球場であったが、敗戦処理。が六番目に観戦した球場は東京都多摩市にある多摩一本杉球場。

昭和60(1985)1月19日、前年限りで現役引退を表明していた江夏豊の引退式を観るために敗戦処理。はこの球場に初めて足を運んだ。ON全盛期のジャイアンツに正面からぶつかっていったタイガース時代を皮切りに、野村克也監督の発案で抑えに転向したホークス時代、ストッパーとして「優勝請負人」の称号を欲しいままにしたカープ、ファイターズ時代を経てライオンズで現役生活を終えた江夏豊。通算829試合登板、206158193セーブ。通算奪三振2987、通算防御率2.491971年のオールスターゲームでの一試合9連続奪三振1979年日本シリーズでの「江夏の21球」など輝かしい実績を誇る大投手であったが、最後に所属したライオンズで広岡達朗監督の方針についていけず、喧嘩別れのような形で球団を去らざるを得ない形になったため、球団が引退試合のような場を設けなかった。

江夏はこの後、米大リーグのブリュワーズのテスト生として海を渡り、大リーグへ挑戦するが、その壮行会も兼ねた「江夏豊たった一人の引退式」がこの東京の西にある球場で行われた。

江夏ほどの大選手の引退セレモニーが何故この球場で行われたかは謎だ。退団までのいきさつから所属球団の球場が使われないのはわかるが、何故この多摩一本杉球場で。

初めは前座のような形で地元の少年野球の試合が行われた。途中で守備側のチームのベンチからビートたけしが登場。審判に「ピッチャー江夏」と告げる。捕手も辻恭彦に代わり、江夏は地元の野球少年を打ち取る。

すると今度は攻撃側のベンチから武田鉄矢が登場。「代打落合」を告げる。落合博満の登場だ。ここで少年野球の選手達はお役ご免。たけし軍団が守備につき、江夏と様々な選手の一打席対決が続く。落合の後、高橋慶彦、福本豊、山本浩二、大杉勝男、斎藤明夫、江藤慎一が一打席対決をし、打ち終わったらマウンドに歩み寄って江夏と握手する。大杉と江藤以外は全員現役選手。1月というオフシーズン期間ながら所属球団のユニフォームを着て参加するという野球協約違反も辞さない強者もいて、江夏の最後を盛り上げてくれた。

その後この球場では80年代に一度だけ一軍のオープン戦が行われた。90年代後半には8月の終わりに年一回、マリーンズ主催のイースタン・リーグ公式戦、対ジャイアンツ戦が定期的に行われていて敗戦処理。も地元ということで観戦に行ったものだが、ここ数年は開催されていない。他に近くにジャイアンツ球場があるとはいえ、多摩市民の一人としては再びイースタン・リーグ開催を待ち望んでいるところだ。

敗戦処理。は当時も今も、この球場と同じ多摩市に住んでいる。大学生だった敗戦処理。はこの時、進級を賭けた大切な学年末試験を控えていたが、いてもたってもいられなくて江夏の最後を見届けに行った。

2006年4月15日 (土)

巨人に小関は必要なのか?

昨シーズン終了後、ライオンズからトレード要員とされ、トレード話がまとまらなかったため戦力外とされて大リーグ入りを目指していた小関竜也がブリュワーズとのマイナー契約成立目前で白紙の状態になってしまったため、急遽日本のジャイアンツの入団テストを受けることとなり、昨日(14)、今日とジャイアンツ球場で入団テストを受けている。今日にも合否が決定する見込み。

V9時代以来の開幕から四カード連続勝ち越しという好ダッシュに成功している原ジャイアンツ。果たして今の時期に外野手を獲得する必要があるのでしょうか?

ライオンズ時代の小関は、一、二番タイプの左打ちの外野手で、1998年から2000年にかけて外野手として658試合連続無失策のパ・リーグ記録を樹立した守備の名手でもある。近年は出番が減っていたが、伊東勤監督の評価は決して低くなく、昨年暮れに小関の自由契約が発表された時には伊東監督が「聞いてない!」と激怒して現場とフロントに確執があることが露呈したほどであった。

ブリュワーズとのマイナー契約が寸前で白紙になった背景には同球団のマイナー選手の外国人枠が埋まってしまったためとのことで必ずしも実力不足ということでは無いらしいが、敗戦処理。は今のジャイアンツが小関の獲得を検討する必要があるのか疑問である。

小関がライオンズ時代に近い成績を残せれば、間違いなくジャイアンツの貴重な戦力になるだろう。しかし高橋由伸と清水隆行がレギュラーで固定されており、残るひとつの外野の守備位置を若い矢野謙次と、今現在は故障で戦列を離れているが亀井義行が争っている外野陣に敢えて補強が必要なのだろうか?

亀井と入れ替わりに一軍に上がってきた山田真介も自慢の足を売りにアピールしている。足に関しては鈴木尚広も今年は健在だし、鈴木とともに前回の原政権時代にブレークした斉藤宜之も久々に一軍に帰ってきているし、内野と兼用で外野も守れる川中基嗣も代打の切り札的な働きをしている。この状況で新たに外野手を獲得する意味があるのだろうか?

ジャイアンツはここ十年近く、FAやトレードなどで他球団の主力選手を獲得する大型補強を繰り返してきた。しかしその代償としてファームから若手選手が育ってこないという現実がある。あまりにも狭き門になりすぎて若手選手のモチベーションが低下しても仕方ない状況にあった。若手が育たないからさらに補強が続くという悪循環で、昨シーズンにタフィ・ローズや清原和博の離脱を機に堀内前監督が若手登用に踏み切ったがローズや清原に代わってフィールドを駆けめぐった選手達はとても若手と言える年齢ではなかった。

好調な原巨人のキーワードとして「日替わりヒーロー」、「全員野球」というフレーズが掲げられるが、それを可能にしているのは原監督が掲げている競争に基づく実力至上主義で、今現在一軍で活躍している以外の選手達も、頑張ればチャンスがあると思って努力しているところに何故外部からの補強という必要があるのか。

今日にも合否の結論が出るのかもしれない。必死でテストを受けている小関本人には申し訳ないが、ジャイアンツは小関を獲得すべきではないと敗戦処理。は思う。もっといえば、テストをすること自体がおかしいと思う。開幕ダッシュに成功し、今の戦力で充分だ等と思い上がって書いているのでないことはこkまで読んでいただければおわかりいただけるであろう。フロントの考えなのか、原監督を初めとする現場の希望なのかわからないが、せっかくの競争心に水をかけるようなことになりかねないと思うからである。敢えて警鐘を鳴らしておきたい。

2006年4月10日 (月)

ジャイアンツがこだわるPRIDEとは?

今年のジャイアンツの試合の中継をテレビで観た方はお気付きであろうが、ジャイアンツの選手のヘルメットに「GIANTS PRIDE」というコピーが貼られている。今年のジャイアンツのスローガンの一つで、球団のみならず読売新聞社と日本テレビ放送網とのタイアップでファンをも取り込んでジャイアンツが本来持つべきプライドというものにこだわってチーム再生を狙おうという発想らしい。

ここ三年間優勝から遠ざかり、ましてや昨年は開幕四連敗に始まって一度も勝率を五割に戻すことなく五位に低迷し、中継のテレビ視聴率も年々低下の一途と、どんどん落ち込んでいるチーム状況を変えるべく、敢えてプライドという言葉にこだわったのだろう。

ジャイアンツのことを「球界の盟主」と表現することがある。これはおそらく、球団の内部から発生した言葉で、それをマスコミが再利用しているのだろうが、敗戦処理。はこの言葉が大嫌いである。なぜなら「盟主」とは普通に言葉の意味を考えれば連盟の主を表し、日本プロ野球における盟主はコミッショナーであるべきで、ジャイアンツのみならず特定の球団を連盟の主と表現するのは根底から間違っていると思うからである。

それはさておき、ジャイアンツが過去において成績や人気において日本のプロ野球界を引っ張ってきたことは紛れもない事実なので、ジャイアンツの選手達や球団関係者が自分たちは特別であり、ここ何年かの状態は異常であり、もっとプライドを持ってジャイアンツのジャイアンツたる所以を取り戻そうと考えることは組織として誤りだとは思わない。むしろそのプライドを決して失わないで欲しいと、一ファンである敗戦処理。も考える。

ただ、ジャイアンツのプライドって何なんだろうかと、敗戦処理。はこのスローガンが出る数年前から考えていた。

アット・ニフティのベースボールフォーラムでは何度か触れてきたのだが、ジャイアンツが他の球団をリードしてきた時代なんてとっくに終わっているのである。作家の海老沢泰久氏が指摘していたが、V9時代以降のジャイアンツの選手で、現役引退後にジャイアンツ以外の球団から監督やコーチとして招かれた選手が極めて少ないのである。これが何を意味しているかというと、同氏によると他球団はもはやジャイアンツの野球を求めていないということである。

思い浮かべて欲しい。V9時代以降のジャイアンツの選手で、ジャイアンツを最後に現役生活のピリオドを打った選手でジャイアンツ以外の球団から監督やコーチに招かれた人物をあなたは思い浮かべられますか?

山本功児がマリーンズで長くコーチや監督を務めたが、彼はジャイアンツから当時のオリオンズにトレードされ、その後の実績で指導者の道に進んだと思われる。またドラゴンズの監督をしている落合博満もFA移籍でジャイアンツの選手となったひとりだが、ジャイアンツの後にファイターズでプレイしているから当てはまらない。

敗戦処理。が思い浮かぶのは今季からゴールデンイーグルスでヘッドコーチを務める松本匡史と、ライオンズでコーチを務めた加藤初、ドラゴンズでコーチを務めた二宮至くらいだ。

ジャイアンツが他球団をリードする時代なんてV9時代を最後にとっくに終わっているのである。その時点までのジャイアンツは日本で初めてのプロ野球チームとして常に日本のプロ野球界をリードしてきたのだろう。ドラフト制度のない時代に他球団よりも有利な条件でレベルの高い選手を獲得してきたばかりでなく、今ではどこの球団でも当たり前にやっているバントシフトやピックオフプレイをどこよりも早くアメリカ大リーグから取り入れて活用するなど、常に日本プロ野球界の先がけ的存在であったのだろうと思う。

その分岐点となるV9-九年連続日本一が終わった翌年、その立役者の一人である長島茂雄が現役生活を終えた。その時長島は「我が巨人軍は永久に不滅です。」と語ったが、ジャイアンツは永久に不滅なのではなく、不滅なのはその時点までだったのかもしれない。

敗戦処理。はそんなことを以前から思っていたのだが、今年の開幕第二戦に当たる4月1日のジャイアンツ対ベイスターズ戦を東京ドームで観戦していたら、「巨人軍は不滅か。」で始まる刺激的なコピーをオーロラビジョンで流していて驚かされた。今年からジャイアンツと業務提携を開始したアディダス社からのメッセージだ。

http://www.yomiuri.co.jp/adv/adidas/fromadidas.htm

このフレーズがイニングの合間にオーロラビジョンに流れるのである。また東京ドームの一塁側内野席の通路にあるアディダスのショップにもこのコピーが掲げられている。

Dscf0111

広告業界ではこのように広告の対象となる商品やサービス、あるいは企業を敢えて肯定的に捕らえず、否定的かつインパクトのある表現を用いて宣伝する手法をネガティブ・アプローチというようだが、まさにその手法だ。キーワードの「PRIDE」にもつながり、球団フロント(やファン)の一部にあるであろう時代錯誤な考え方を否定し、新しいジャイアンツのプライドを築こうというメッセージとも推測出来る。ミスタージャイアンツと賞賛され、ジャイアンツの栄光を象徴するかのような長嶋茂雄さんの有名なフレーズを敢えて取り上げることで並々ならぬ危機感を喚起しようとする意気込みもうかがえる。ジャイアンツは本気で変わらなければならないし、変わろうとしているんだよというメッセージに映る。斬新な発想だ。

しかし実は、ジャイアンツに奮起を促すこのようなネガティブ・アプローチによる手法は初めての試みではない。十二年前にも試みられたのだ。

これまた長嶋氏が絡んでくるのだが<苦笑>、プロ野球興行にとっての黒船とも言えるサッカーのJリーグがスタートした1993年。ジャイアンツはその当時にも人気低迷の危機が叫ばれていたが、長嶋茂雄氏を監督に迎えたが、その年、ジャイアンツ自体はセ・リーグで3位と優勝を期待したファンを裏切る結果となった。そしてそんな状況で開幕を迎えた翌1994年、系列の日本テレビがジャイアンツ戦を主体とする野球中継のスローガンとしてネガティブ・アプローチの手法を試みた。-

1994年/日本テレビ・劇空間プロ野球'94「巨人を棄てる」

http://home.q00.itscom.net/sakai/works/SUTERU.html

今年のアディダスによる、外部からのメッセージという感じではなく、巨人を棄てる-の主は他ならぬ長嶋茂雄監督そのものである。この新聞広告の原稿が決まった時、当の長嶋監督は「ううん、そうですねえ、これぐらいのことしなきゃいけないかもしれませんねえ」と二つ返事で承諾したという。

長嶋監督本人も相当な危機感を持っていたに違いない。しかし、このキャンペーンは球団の監督よりももっと権限のある人に「けしからん!」と一蹴されて途中で中止されてしまった。その人の名はまだジャイアンツのオーナーに就任する前の渡邊恒雄氏。

見る人が見れば、並々ならぬ決意を表すまさにネガティブ・アプローチ特有の表現と理解出来るが、見る人が見るとあの輝かしい栄光の場面にバッテンをつけ、過去の積み重ねられた栄光を否定する暴挙と認識されてしまうのだろう。

今回も渡邊恒雄氏はオーナーではないが、球団に影響力を持っているという点では十二年前と同様、いやそれ以上であろう。それだけ今回は球団のトップから何から皆が危機感を持っているとも評価出来るが、逆に言えば十二年前にもっと危機感を持って対処していれば、今こんなに苦しまなくてもすんだのではないかと悔やまれる。いや、ひょっとしたら当時の危機感の結果が長嶋監督人気や大型補強にばかり走ったチーム造りに依存するという選択だったのかもしれないが。

11日からジャイアンツは東京ドームでカープとの三連戦を行うが、球場内で先のWBCの優勝トロフィーを展示するそうだが、

http://www.giants.jp/G/gnews/news_20060403_0001.html

球場を訪れたファンはトロフィーを見たついでにアディダスのショップを探すか、オーロラビジョンに出るメッセージにも注目していただきたいものである。

はたして、巨人が再び巨人になるのは不可能か。

2006年4月 9日 (日)

岡島、實松、古城が揃い踏み【4/8イースタン、ジャイアンツ対ファイターズ戦観戦記】

ジャイアンツとファイターズを応援している敗戦処理。にとって、今日のイースタン・リーグ公式戦、ジャイアンツ対ファイターズ戦観戦は特別な意味を持ちます。もちろんジャイアンツ期待の大物ルーキー、辻内崇伸のデビュー戦ということもありますが、それはたまたま今週の水曜日、5日の登板予定試合が雨で流れてこの日に回ったというだけのこと。パ・リーグ公式戦開幕の前日に発表された電撃トレードの三人、岡島秀樹、實松一成、古城茂幸が勢揃いする試合ということで敗戦処理。にとっては特別な試合なのです。

敗戦処理。がジャイアンツの辻内を生で観るのは二度目。本ブログでも触れた3月12日の教育リーグでのプロデビューの時以来です。
( http://mop-upguy.cocolog-nifty.com/baseball/2006/03/post_b8e6.html )

その時も制球が定まらず、まだまだ荒削りな印象でしたが今日はその印象を強めてしまいました<苦笑>。

一回表と二回表。ファイターズ打線との対決はすべて三振か四球。敗戦処理。は辻内登板中はネット裏のど真ん中、前から四列目で観戦していたのですがボールが手から放たれた瞬間にボール球とわかるものが何球もありました。

003

三回表に入ってもその傾向は続き、一番川島慶三、二番工藤隆人が連続三振。ここまで打者11人、8人が三振、3人が四球と見事に両極端な結果です。しかしファイターズもここからはクリーンアップが二巡目、辻内を捕らえます。

三番・陽仲壽がレフト線に二塁打。四番・鵜久森淳志はセンターオーバーの三塁打。そして五番・森章剛が左中間に本塁打とあれよあれよという間に辻内は3点を失います。

教育リーグ登板の際にはマリーンズにセットポジションのクセを見破られていたようですが、この日はそれ以前にストライクとボールがはっきりし過ぎ。なまじ球を揃えようとすると相手のクリーンアップには集中打を浴びるということで辻内にはまたまた勉強になったことでしょう。

それでも辻内はこの後、四回表、五回表と四球の走者を許しながらも追加点を与えません。このあたりはさすが大物ルーキーですな。

敗戦処理。的メインディッシュはむしろこの大物ルーキー降板後でした。

先発して5回2失点(自責点は1)のファイターズ橋本義隆に代わり、ファイターズは六回裏から二番手に岡島をマウンドに送りました。この日最大の拍手と歓声が両軍のファンから岡島に贈られます。ジャイアンツとファイターズ双方を応援している敗戦処理。にとってこのトレードは贔屓チームから贔屓チームへの移籍という形ではありますが、胸にNIPPONHAMと書かれたファイターズのビジユニを着た岡島の姿を初めて実際に生で観ると複雑な気持ちですね。

005 岡島が対戦する最初の打者は「五番・ショート」でスタメン出場している古城。ジャイアンツ時代と変わらぬ、打者から目をそらすフォームで古城から見逃しの三振を奪った岡島はたんたんとジャイアンツ打線を打ち取ります。そして七回表、今度はジャイアンツベンチから實松の姿が。スタメンマスクの加藤に代わり、この回からマスクを被ります。これで三人が勢揃いしました。

辻内と同じ高校卒ルーキーの加登脇卓真を無難にリードしてファイターズ打線を三者凡退に抑えると、その裏實松は二人目の打者として岡島と対戦。トレード対決第二幕は岡島が實松をショートフライに仕留め、これまた岡島の勝ちです。

結局岡島は3イニングを投げて打者9人相手にパーフェクトの投球。お決まりの四球がありませんでした。

敗戦処理。はジャイアンツ時代の岡島の調子のバロメーターとしてカーブでストライクが取れるかどうかを意識してみていましたが、今日はストレートもカーブも効果的でした。

【8日・ジャイアンツ球場】
F 003 000 000 =3
G 010 100 000 =2
F)○橋本、岡島、S伊藤-小山
G)●辻内、三木、加登脇、東野-加藤、實松
本塁打)森1号2ラン(辻内・3回)

明日のスポーツ新聞などではおそらく辻内のデビュー戦という扱い方をされることでしょう。個人的には鵜久森と辻内の甲子園スター対決も見どころと思いましたが、マスコミは移り気なので鵜久森には触れず、辻内が11個も三振を奪ったことをクローズアップすることでしょう。

しかし、敗戦処理。的には岡島、實松、古城が揃い踏み-これがこの日のハイライトです。今日はジャイアンツ球場に鎌ヶ谷の常連さんの姿を何人も見かけました。彼らは鎌ヶ谷の時と同じように實松に「サネ~」とヤジや声援を送ります。大型捕手と期待され、一度は一軍で正捕手の座を射止めながらその後何度も何度も鎌ヶ谷に帰ってきてしまうサネ。敗戦処理。も秘かにファンでした<笑>。

002005_1 ジャイアンツのユニフォーム姿が初々しい古城<写真左>と 實松<同右>。練習中のジャイアンツナインのキャッチボールではこの二人がコンビを組んでいた。まだジャイアンツナインとはなじんでいないのか<苦笑>?

敗戦処理。は月曜から金曜まではマジメなサラリーマンをしているのでイースタン観戦は土日限定。次にこのカードの観戦を見込めるのは6月17、18日の鎌ヶ谷。その時、この三選手の内、何人が再会することになるのだろうか。

2006年4月 2日 (日)

ファイターズタウン鎌ヶ谷、テーマパーク化への道

昨日(4月1日)、イースタン・リーグ公式戦、ファイターズ対スワローズ戦を観戦に鎌ヶ谷のファイターズスタジアムまで行ってきました。

今年になってからは3月4日の教育リーグ、3月18日のファイターズ鎌ヶ谷の会主催による選手との交流会についで三回目、公式戦は初めてです。

前にも触れた大社啓二オーナーによるファイターズタウンのテーマパーク化は、具体的に動き出しているのでしょうか?

これまでに報じられているところでは、ファイターズタウンの敷地に温泉を掘ってそれを中心にいわゆる健康ランド的な施設を創るとか(この当たりからは結構温泉が出来るらしい。)、外野の芝生席(普段は観客を入れません。)でバーベキューが出来るようにするとか、的に当ててコントロールを競うなど、野球にちなんだ子供向けのアトラクションを創るとか、ファームのマスコットキャラクターを誕生させるといった案などがあるようです。

このうち、現時点で実現しているのは本ブログでも紹介した新キャラクターのカビー(カビー・ザ・ベアー=C・B)くらいですかね。

この日は敗戦処理。は、球場に到着してもすぐには入場せず球場の外を一周したのですが、外観はまだ変化が観られませんでした。しかし、中に入ると通路でカビーがちびっ子ファンと遊んでいました。もちろん鎌ヶ谷限定のカビーグッズも(ありきたりなものばかりですが)売られていました。

カビーはこの後グラウンドに降りてテニスボールをスタンドに打ち込んでいました。このボールを捕った人はスタンドの売店仁陣で焼きそばと交換してもらえるという特典があるとのことでした<>

もちろんカビーは試合中にもファイターズ側の三塁側スタンドにも出没し、ちびっ子ファンと遊んでいました。

また、この日はファイターズが3対2で勝ったのですが、

http://bbs1.com.nifty.com/mes/cf_wrentT_m/FBBALL_B014/wr_type=T/wr_page=1/wr_sq=FBBALL_B014_0000002299

決勝打を放った鵜久森からファンに一言という昨年までにはない企画がありました。ヒーローインタビューのようにアナウンサーとの問答形式ではなく、選手にマイクを持たせ、ファンに挨拶するというものでした。そして鵜久森はその場で書いたサインボールをスタンドに投げ込みました。

ファームでファンサービスが充実しているチームというとベイスターズのファーム、湘南シーレックスが真っ先に思い浮かびます。本拠地の横須賀スタジアムは京浜急行の追浜駅が最寄り駅なのですが、追浜駅から横須賀スタジアムまで歩く約10分強、商店街に掲げられる球団旗などがいかにも地域密着を感じさせます。球場に着けばレック君が楽しくお出迎え。イニングの合間には陽気なDJがシーレックスファンをさらに熱くさせる演出も見事で、シーレックスのファンならば試合結果にかかわらず「また次も観に来よう」と思わせる仕掛けが満載です。

ファイターズもようやく本腰を入れて…という感じですが、どこまで地元市民、ファンの心をつかむ施設に変えていけるか。一軍と二軍で所在地が極端に離れているというレアな存在を、アメリカのメジャーとマイナーのように独立した存在に見せるなど、シーレックスとはまた別の切り口で挑戦して欲しいですね。

球団のオーナー自らファームの施設に言及する球団は珍しいかもしれません。オーナーのお墨付きもあるのですから、敗戦処理。の様な地元民ではない者が何度でも足を運びたくなるような施設にして欲しいですね。

チームとしても岡本監督体制になって2003年、2004年とイースタン・リーグ優勝、小田智之、小谷野栄一、鎌倉健、森本稀哲…と一軍への選手供給もそれなりに出来ていて試合の見どころも満載のファイターズですが、ハードがさらに充実することで、一軍のバックアップ体制もさらにさらに強化して欲しいものです。

2006年4月 1日 (土)

「生」観戦した野球場(5)-川崎球場

01 いろいろな野球場で日本のプロ野球を観てきました。その数40以上。だからどうしたと言われればそれまでですが。

このコーナーでは敗戦処理。がプロ野球の試合を観戦した野球場について順に書いていこうと思います。月に1~2球場の割合で書いていこうと思います。また、シーズン中に新たな球場に行ったら加筆していこうと思います。

第5回 川崎球場 観戦球場ファイル-5-

川崎球場は敗戦処理。がプロ野球に興味を持ち始めた頃にはホエールズ(現ベイスタ-ズの前身)の本拠地であった。

当時印象が深かったシーンを挙げると、王貞治の通算700号本塁打とタイガース佐野仙好外野手がレフトを守っていてフェンス際の打球を追いかけて好捕した後にフェンスに激突、気を失っている間にホエールズの一塁走者善男がタッチアップして一気にホームまで駆け抜けたシーン。

横浜スタジアムが出来てホエールズが1978年に移転してからはオリオンズ(現マリーンズ)が本拠地として使用。1992年に千葉マリンスタジアムに本拠地を移すまで使われた。また首都大学野球連盟のホームグラウンドとしても活用された。オリオンズに去られた後、老朽化が激しく、また大地震が起きた時に危険だという理由で取り壊しが決定。2000年には「川崎劇場ファイナルシーン~ありがとう川崎球場~」として過去にこの球場を本拠地として使用したベイスターズとマリーンズによるオープン戦が開催された。現在は草野球などで使用されている。首都大学野球連盟は二年前に創立四十周年となったが川崎球場が使えないため記念試合を東京ドームで行った。

敗戦処理。が初めて観戦したのは1984年4月9日。オリオンズ対ファイターズ戦。綱島に住んでいた友人がたまたま一塁側内野指定席を二枚入手したので私を誘ってくれたのであった。贔屓であるファイターズの試合を観るという楽しみがもちろんあったが、当時閑古鳥が鳴くことで有名な川崎球場とは実際どんなものかという興味の方が上回っていたことを記憶している。

友人も川崎球場は初めてだったらしく、二人して木戸をくぐり、階段を上がり、案内のお姉さん、じゃなくてオバさんにチケットを見せる。「どこでもいいよ、今日はいっぱい空いているから。」たしか座席の配列がA、B、C…ではなく、い、ろ、は…だったような<>

敗戦処理。は川崎球場で三回観戦した。最初がこの時で、その後オリオンズが本拠地にしていた時代のオリオンズ隊バファローズ戦、そして先述した「川崎劇場ファイナルシーン~ありがとう川崎球場~」ベイスターズ対マリーンズ戦。

敗戦処理。の様に滅多に来ない人まで球場に駆けつけたせいか、球場前に長蛇の列。あの「10・19」でも満員になったのは試合途中からだったそうだから、極めて異例だった。

01_3

レフトスタンドを埋め尽くしたマリーンズ応援団による、この球場を本拠地にしていた時代の主力選手の応援歌が鳴り響く中、マリーンズ打線が大爆発。小坂誠までが二打席連続本塁打を放つ最後のお祭り騒ぎだった。

【2000年3月26日・川崎】

M 001 460 083 =22

YB 130 011 000 =6

M)○黒木、ロバーツ、清水直、藤田、ウォーレン-清水将、吉鶴

YB)川村、●斎藤隆、福盛、森中、矢野-谷繁

本塁打)堀3号(斎藤隆・4回)、4号(斎藤隆・5回)、バリー2号

(斎藤隆・5回)、3号(森中.8回)、初芝2号(斎藤隆・5回)、3号

(矢野・9回)、小坂1号(森中・8回)、2号(森中・8回)、立川3号

(森中・8回)、福浦2号(矢野・9回)

球場が狭いことをカバーする、やたらに高い外野のネットが特徴的で、ファイターズファンとしては1981年のパ・リーグプレーオフ第一戦でオリオンズの落合博満が右中間に放った本塁打性の打球がこのネットの最上部に当たり二塁打止まりとなり、1対0で逃げ切れた試合が印象深い。

古き良き(悪き?)パ・リーグを象徴するかのような球場であり、観客が入らないことを逆手に取った「テレビじゃ観れない川崎劇場」なるテレビCMまで作られたこの球場。たった三回でも足を踏み入れた身として、こういう場で語り継いでおきたい。

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